夜想曲 ~逃れの果てに~・変ホ長調①

 

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夜想曲・変ホ長調①

 

明くる日、久美は被害届を出しに行った帰りに、駅前のスーパーに寄って買い物をしていた。

「ルン、ルルン……お魚さん、オ・サ・カ・ナ・サンは、どこでしょう?」

いつになく上機嫌だ。

「あっ、あった、あった。あとは、後は後はと……」

魚をカゴに放り込み、久美はキョロキョロしながら歩いた。

「トマトさん!」

そう叫び、彼女はピョ~ンと跳んでトマトの2個入りパックを手に取った。

「!」

近くにいた主婦や店員がびっくりして久美を見る。

「あっ……」

それにより久美が我に返る。

「あのオネーチャン、病気なの?」

20代後半らしき主婦が連れていたボーズがそれに追い討ちをかける。

「……」

久美は真っ赤になり、急いでレジを済ませて逃げるように表に出た。

しばらくしてから振り返る。

「アー恥ずかしかった。でも、まっ、いいや! ルンルルン……」

彼女はまた鼻歌を歌いながら歩き出した。

 

 

何がそんなに楽しいのか、と訊かれても、はっきりとした自覚があるわけでもない。ただ、[生きている充実感]といったものを生まれて初めて味わっている、と言えば、いくらか答えに近いような気もする。

そんな久美を、少し間隔を置いて尾けている人物がいた。広岡だった。西谷はいない。探偵物のように物陰に隠れたりせず、ただ単にスタスタついてくる。

「あ~あ、何であんな子、尾行しなくちゃなンねえの? まあ、楽でいいけどね、全然気付かねえから」

広岡は頭の後ろで手を組み、ぶつぶつぼやきながら歩いている。

「でも、あの子、めちゃんこカーイイなァ……おお! あのくびれた腰! ウウッ、たまんねえ!」

そう言って身震いする。

「彼氏いンだろーなァ。あんなカーイイ子とチョメチョメしてるヤツって、どんなヤツだろ……うっ、羨ましい!」

1人妄想に憑りつかれ、広岡は思わず大きな声を出してしまった。

「ん」

久美がそれを聞いて振り返る。広岡は慌てて電柱の陰に隠れた。

「……ふ~ん」

久美は何も認めず、また元のように歩き出した。

― おお、危ね……

広岡も歩き出す。

そうこうしているうちに、もう久美の住む住宅地に入っていた。

「でも、なんか俺、オッカケみたい。『張込み』のリチャード・ドレイファスになっちゃっても知らないよ、西谷さん」

並びの角で止まり、家に入っていく久美を見ながら広岡は呟いた。




夜遅く、久美がキッチンでゴトゴトやっていると、敏男が眠そうな目を擦りながら起きてきた。可愛らしいパジャマを着ている。全身スヌーピーだらけ、といった感じ。頼子の好みなのだ。

「う~ん……。何やってるんだ?」

「えっ? ああ、お夜食作ってるの」

相手を確認した彼女は、また作業を続けながら答えた。

「どうして?」

折詰めにしている久美の背後から、首を伸ばして手元を覗き見ながら訊く。

「どうしても」

「ふ~ん。腹減ったのか」

物色し、卵焼きに手を出そうとする。

「そうです」

その手を叩き、折に蓋をする。

「そんな遠足に行く時みたくきれいに作って。……遠足の時、自分で作ったことないけど」

「いいの! 気分なんだから。パパは早く寝なさい!」

そう言い、久美がキッチンを出て行く。

「久美も早く寝なさい」

「フフッ、はい! お休み!」

ニコッと微笑み、久美は2階に上がって行った。

 

 

目の前に折詰めを置いて、久美は机にベターッとへばり付いていた。

自分の部屋だ。

彼女はぼんやりと折を見詰めていた。

「冷めちゃうけど……しょうがないね。我慢してね」

そう呟き、指先で彼氏の食べ物をピーンと弾く。

「まだ、知り合ったばかりなのに……」

それどころか、ほとんど話らしい話もしていない。なのに久美は、もう随分前から知っていたような、たくさん話したような錯覚に囚われていた。不思議だった。しかし、だからといって、それが異常だとか間違いだとかは思わない。そういうものなのだろうと、ただ、そう思った。

「ふう……」

手を組み、片頬をその上に乗せる。机の角で形の良い胸が上半分潰されている。

そうしていると気持ちが良いのだ。胸の高鳴りを鎮めるため、何かに押し付けていたくなる。大人の女の本能なのだろう。久美には初めての経験だった。

 

 

×            ×

路地。

電柱の陰にあったゴミ箱をイス代わりにして、広岡が暇そうにタバコをふかしている。

「……早くおうちに帰りたい」

久美の部屋の明かりを見上げ、恨めしそうに呟く。

 



 

×            ×

どのぐらい経ったのだろう、気が付くと外は風が強くなっており、窓をポツポツと雨が叩き始めていた。知らぬ間に眠っていたのだ。

久美は顔を上げ、窓の外を見た。

― 雨……

時計に目を移す。12時40分。

「あっ、もう行かなきゃ」

折詰めを持ち、久美は電気を消してから静かに部屋を出た。



×            ×

「雨にぃ~っ濡れながぁ~ら~……なんで誰も交代に来ないの?」

ずぶ濡れになりながら、広岡は直立不動で久美の部屋を見上げていた。

しかめっ面をして背広を頭に被る。

「あの子は関係ないって言ってるのに、それを西谷さんは朝まで見張ってろだなんて……」

彼がそうぼやいた時、久美の部屋の明かりが消えた。

「あ……消えた! 寝るんだな、やっと……。ん? 待てよ。ということは、もう見張る必要はない? 俺はもうお呼びでない? 帰っていい? ふんふん……」

広岡はまた独り合点をし、

「ほんじゃま! ご機嫌よう」

ジャミラのような恰好のまま「かーえろ、かえろ」と歌いながらピョンピョン飛び跳ね、去って行った。



×            ×

「……」

久美は静かに階段を下り、傘を取って外へ出ようとしている。

物音を立てないようにと気を配ってはいるが、どうしても少しは立ててしまう。

外に出て、ドアを閉める時、カチッという乾いた音がした。久美は、ままよ、とばかり開き直って、さっさと門を開けて出て行った。

久美が出て行ってすぐに、寿江が部屋から出てきた。

「……」

上がり框に立ち、ドアの方をぼんやりと見ている。

「ふあ~っ。お義母さん、どうしたんです?」

敏男も物音を聞いて起きてきた。

「ああ、敏男さん。いえね、おトイレに立ったついでに、戸締まりを調べようと思いましてね」

「ん? 戸締まりなら僕がしましたよ」

「歳を取ると用心深くなっていけませんね。ほっほっ」

「はあ……」

敏男は訳が分からずポカーンとしていた。