夜想曲 ~逃れの果てに~・華麗なる大円舞曲①

 

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華麗なる大円舞曲①

 

『エレーン! エレーン!』

挙式中の教会の窓にへばりつき、男が新婦の名を連呼している。サイモン&ガーファンクルのサウンド・オブ・サイレンス ― あまりにも有名なラストシーン。

ダスティン・ホフマンのデビュー作『卒業』を放映している小さな映画館。ウィークデイの昼だからか、それともビデオの普及でリバイバル映画などに人々が足を運ばなくなったためか、客席は閑散としていた。

最前列・中央に1人の男が座っている。

何も好き好んでそんな見辛い場所を選ばなくても、他に空席はいくらでもあるのに……と思っていたら、顔はスクリーンの方を向いてはいなかった。

今日は朝から晴れていたにもかかわらず、その男のジーンズとスニーカーは泥だらけで白いシャツも洗いざらしのようにヨレヨレになっていた。髪はバサバサで首は垂れている。

眠っている浅い息遣い……



鍵盤に伸びる白くて細い指。

その指先の緩やかな動きによって奏で始めるグランドピアノ ― ショパンの夜想曲(ノクターン)作品9の1 変ロ短調。

視点を上げていくと奏者は久美だった。

ピアノ教室。わりと広い室内。

演奏している後ろで講師と生徒たちが聴いている。発表会が近く、そのリハーサルといったところだ。

夜・雨・孤独……などを連想させる哀しい音色。久美の演奏に皆、聴き入っていた。

 

 

「へえっぶしっ!」

バニラ・シェイクを口から離し、西谷は大きなクシャミをした。鼻水が垂れる。

「風邪ひいたんスか?」

ハンバーガーにかぶりつきながら広岡が訊く。

駅前のハンバーガーショップの前である。

西谷は答えず、ポケットからハンカチを取り出して鼻水を拭った。昼はとうに過ぎ、夕方近くなってようやく食い物にありつけた2人だった。

「西谷さん、もういい歳なんだから、無理しないで僕に任せておいてくれればいいのに……雨ン中、何時間も駆け回るからですよ」

「ばかやろう! おまえなんかに任せてられるか! 2人でも逃げられちまったじゃねえか……」

「ハハッ、そうっスね」

広岡は別段、意に介した様子もなくハンバーガーを食べ続ける。彼の背広のポケットは予備のバーガーで膨らんでいた。

「ふん!」

西谷は鼻を鳴らしから、ストローをしきりにチューチュー吸った。

「だけど、同情の余地はありますね……」

広岡が急に話題を変えた。表情も真面目なものに変わっている。

「ああ?」

「工藤のことですよ」

「ああ……。そんなこと言ってちゃあ、デカは務まらねえよ」

西谷はまだしつこくチューチューやっている。

「どこに隠れてんのかなァ……もう、どっか他んところへ移ったんじゃないでしょうか?」

「金はほとんど持ってない。コンタクト取りそうな奴んところには全部張らしてある。だから絶対いるはずだ」

「そうですよね。ハハッ、案外その辺ウロウロしてたりして」

「バーカ……。オイ、それより、この飲み物えらい吸引力がいるな」

通りかかった女子高生2人が、シェイクを吸ったり離して眺めたりしている西谷を見て笑った。西谷がそちらを睨む。2人が慌てて逃げていく。広岡がそれを見て笑った。

「ふん! おい、行くぞ!」

また鼻を鳴らし、西谷はシェイクをくずかごに投げ捨て、スタスタと歩き始めた。へらへらしていた広岡は残りのハンバーガーを口に放り込んで、慌てて後を追った。




その2人と入れ替わりに、1人の男が店に入って来た。

「……」

店内を見渡す。ほぼ満席の状態。やはり若者が多かった。

男はポケットから小銭を出して数え、溜め息を付く。そこへ恐らく10代であろう女店員が元気に声を掛けた。

「いらっしゃいませ、こんにちは! 何になさいますか?」

「あっ……ハンバーガー1つとコーラの……S」

「ポテトはいかがでしょうか?」

「いらない」

「ありがとうございます。お会計、先に願えますか?」

「あっ……」

有り金を全部渡す。

釣銭を受け取った男はその手を開いた。すると途端にまた情けない表情になる。溜め息。手の中には10円玉が4つ。もう何も買えない。

店員が持ち帰りの用意をしているほんの少しの間も、男は入口の方に注意を払っていた。シャツは水道の水で洗ったので少しヨレヨレにはなっていたが、時期的に他人から奇異な目で見られることもなかった。が、ジーンズとスニーカーはかなり汚れていた。

「ありがとうございました、またどうぞ」

店員から紙袋を受け取ると、その男・工藤洸一はまた雑踏の中に消えて行った。

 

 

久美は男と出逢った公園に来ていた。

ブランコに腰掛け軽く揺すりながら、足元の水たまりをただぼんやりと眺めている。もう30分ほどそうしていた。

ピアノのレッスンの後、友人の寛子と買い物に行ったが、結局、何も買わなかった。そして帰り掛け、気付いた時にはここへ来ていた。

「いるわけ、ないわよね……」

呟き、辺りを見渡す。

いつも通り、公園内は主婦と子供でいっぱいだった。

― やっぱり、もうこの辺りにはいないのかな……

「オネーチャン。ねえ、もう代わってくれない」

また下を向いて久美が考え込んでいると、3つぐらいの男の子がそばに寄ってきて言った。が、その言葉は久美には届かなかった。

「ねえ……」

繰り返したが結果は同じで、その男の子は、オネーチャン、と呼びながら久美の服を掴んだ。その時ちょうど久美が、あっ、と言っていきなり立ち上がった。

「!」

掴んでいるものが上に行ったのだから、当然その子の足は宙に浮き、次の瞬間地面に投げ出される羽目になる。運悪く、その男の子は水たまりに落ちた。

「ふえ、ふえ……」

「ん?」

久美がようやく気付き、そちらを見た。

「ふえ~ん!」

「えっ……あっ、私? ゴメンネーッ」

慌てて助け起こそうとしたが、その子は自力で起き上がり、一目散に母親のところへ飛んで行った。

久美はその後に続き、母親にペコペコ頭を下げてから急いで公園を出た。

― そうだ。五線紙買うの忘れてた……

取り立てて今すぐ必要なわけでもないのに、何となくそう思い、彼女はまた駅の方へ戻って行った。



久美が駅に着いた頃、もう辺りは暗くなり始めていて、周辺は家路に向かう人々でごった返していた。

彼女は踏切が開くのを待っていた。文房具店が向こう側にあるからだ。

― この踏切、長いからなァ……

5分10分待たされることはざらで、開いても尻から鐘がなる『開かずの扉』ならぬ、『開かずの踏切』で、皆から嫌われていた。久美が待っている間にもどんどん人が増えてくる。

やっと開き、人々はパチンコ店の新装開店時のようにドッと線路になだれ込む。久美もそれに倣った。右側通行もヘッタクレもなく、両側からの人間が入り乱れて反対側を目指す。

「!」

踏切を渡りきったところで何を思ったのか久美は急に立ち止まり、後ろを振り返った。

その時ちょうど鐘が鳴り、遮断機が下り始める。

― 分からない!

しきりに頭を振り、捜している。

見えるものはただ人の群れ。いたたまれなくなり引き返そうとした時には、もう遮断機は完全に下りていた。

久美は未練がましく、その黄と黒の棒に掴まり向こう側を見ていた。

彼女は確かに感じたのだ。昨日からずっと自分の意識を離れないあの男の気配を。

― 確かにあの人だった……

久美は視界を電車が遮っても、いつまでもそうしていた。