革命②
昨日のことがあってか、今日の頼子は格別優しかった。夕食を取っている今も、ひたすらニコニコしている。
「久美さん、今日のレッスンはどうだった? ちゃんと弾けた?」
「うん」
久美はチラッと頼子を見、答えた。
「そう……。あっ、マー君。ご飯粒がホッペに付いてるわよォ」
頼子はそう言って正敏の頬のご飯粒を取って食べた。
「……ママ、どうかしたの?」
正敏が訊く。子供というものは異変を察知するのが早い。
「う、うん? ど、どうして?」
焦ってどもりながら頼子が久美を盗み見する。
「何かヘン」
「そ~お? そんなことないわよ。フフッ」
必死にごまかす。
「……」
そんなことには構わず、久美はしきりに時間を気にしていた。もし、埠頭に行くつもりなら、もうそれほど時間が残っていないからだった。
ここから埠頭までだと、電車とバスを乗り継いで約1時間。駅までと、バスを降りてからの時間を計算に入れれば、およそ1時間半は見ておかなければなるまい。発つのが10時だから、8時半にはここを出発しなければならなかった。
― 7時か……後1時間半しかない……
キッチンの壁掛け時計を見ながら、久美はそう思った。
「ねえ、ママ。パパは?」
正敏が何気なく訊いた。それにより頼子がまたうろたえる。
「えっ……パパ? あっ、パパね、今日は仕事で遅くなるんだって」
「ふ~ん。つまらないの。マリオ、途中なのに……。あっ、そうだ! オネーチャン、やってよ」
「えっ? う~ん……。じゃあ、後でマー君とこ、行くね」
久美は戸惑いながらも何とかそう答えた。
「うん! ヤッター!」
正敏の喜ぶ顔が、久美には辛かった。
― ごめんね、マー君。もう、してあげられないかもしれない……
久美は箸を置き、席を立った。
「ごちそうさま」
「あら? もういいの?」
「うん」
「そう……」
後は何も言わず、頼子は久美に微笑みかけた。
「オネーチャン、早く来てよ?」
「うん!」
久美は微笑んで返事をし、2階に上がって行った。
その姿を心配そうに見ていたのは頼子だけではなかった。
「……」
祖母の寿江も階段の方をジーッと見詰めながら、何かを考えているようだった。
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自室に入った久美は、また机に伏せて考えていた。
― 私のせいで、あの人が罪を重ねようとしている……。パパの言う通り、ただの憧れかも知れない。でも、私はそうは思わない。波長があったから……そうは思いたくない……だけど、もし彼について行くなら、家族とは永久にもう会えないかもしれない……その時になって間違いに気付いたら、あまりにも哀しい……
久美は分からなくなっていた。
「ああ! どうすればいいの……」
髪を掻きむしる。
その時、背後から、
「どっちでもええんじゃ」
と言う声が聞こえ、久美は驚いて振り返った。
「おばあちゃん……」
寿江だった。ドアを半開きにして立っている。
「ちょっと、入らせてもらいますよ」
ドアを閉め、部屋に入ってくる。どっこいしょ、という老人特有の掛け声とともにベッドに腰掛けた。
「おお、これ、フッカフカやね」
ベッドをパンパン叩きながら微笑む。
「……おばあちゃん」
「久美さん。あんた、悩んどるね?」
一瞬、寿江の表情が真面目なものになる。
「おばあちゃん、知ってたの?」
「ホッホッ。歳を取ると寝る時間が短くなってね……ごめんなさいよ」
「……」
久美は困ったような顔をして微笑んだ。
「お父さんの言った言葉が、引っ掛かっとるのじゃろ? 今の人を諦めても、後でなんぼでもええ人が見つかるって……この人だけっちゅうのは間違いじゃて?」
「……うん」
久美は素直に頷いた。
「どっちでもええんじゃ。どっちが正しくて、どっちが間違いってことはねえ」
「……よく、分からない……」
久美は首を傾げていた。寿江はそれを見て笑った。
「ホッホッ……久美さん、あんたはその男の人以外ないと思っとるんじゃろ?」
「うん」
「それで、お父さんは後でいくらでもいると言う……」
久美は黙って頷いた。
「どっちでもええんじゃ。どっちも正しいんじゃ……。あんたが思っとることを貫けばそうなるし、お父さんの言う通りだと思えばその通りになる……そんなもんじゃ」
寿江は微笑みながらそう言った。
「……」
久美は寿江をジーッと見詰めていた。
「……物事に、これはこうだ、っちゅう決まりなんてないんじゃ。特に人間の心のことなんて、そう簡単に決め付けられるもんじゃねえ……。だから、久美さん。どっちでもええんじゃよ……」
そう言い久美を見詰める寿江の目には、いつになく真剣な、切羽詰まったような光があった。
「おばあちゃん……」
祖母の思いやりが痛かった。祖母はいい加減なことを言っているようでも、しっかり自分の言葉を理解している人だった。久美は耐え切れず、寿江に抱き着いた。
「久美さん……行くんじゃろ?」
孫の髪を撫でながら静かに訊く。
「……うん」
久美が顔を上げて答える。その頬には光る跡があった。
「じゃあ、もう支度をせんと……あんまり時間がないんじゃないのかね?」
「うん」
久美は起き上がり涙を拭いた。
「それから、これ……」
寿江は懐から大きな財布を取り出した。
「久美さんが持っとるのだけじゃ、足らんじゃろ? 持って行きなされ」
孫の手を取り、財布をしっかりと握らせる。それにより久美はまた泣き出しそうになり、それを必死で堪えていた。
「気にせんでええ。年寄りには要らんもんじゃ。それより、気ィ付けてな」
「うん」
寿江はそう言うと帰って行こうとした。が、ドアを半分開けた時、振り返り、
「1つだけ、約束してくれんか……」
と、久美をジーッと見詰めながら尋ねた。
「ん? なあに?」
「短気だけは、起こさんでおくれ。なんがあっても……」
寿江は必死の眼差しで訴えていた。
「……うん」
久美は微笑み、頷いた。
寿江はそれ以上何も言わず、部屋を出て行った。
寿江にしたところで辛いのは同じだった。自分が生きているうちに、もう孫と会えないかもしれないのだから……。
「よし!」
久美は、元気を出すために声に出してそう言い、荷物をまとめ始めた。
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「マー君」
ドアの隙間から顔を覗かせて、久美は弟の名を呼んだ。
「あっ、オネーチャン」
正敏が、振り返って嬉しそうな顔をした。
久美が部屋に入る。
「マー君、ごめんね。ちょっとしか、してあげられないの……」
「ええ……」
正敏の顔が不満そうなものに変わる。
「ごめんね……」
久美は眉をへの字にして謝った。
「……う~ん。まあ、いいや。とにかくやってよ」
「うん!」
返事をし、久美はファミコンのコントローラーを手に取った。
それから20分間、久美は弟と一緒に過ごした。
「ああ! オネーチャン! 何してんだよ。左。左に逃げないとやられちゃう……ああ……」
正敏が画面から目を落として落胆する。
「どうしたの? いつもは簡単にクリアするところなのに……」
ふてくされて言う。が、久美が返事をしない。動作も止まっていた。
コントローラーの上にポタポタと水滴が落ちている。
「ん?」
正敏がそれに気付いた。
「オネーチャン……」
姉の顔を覗き込む。
久美は泣いていた。
「あ……どうしたの? ねえ、オネーチャン……。お腹痛いの?」
「正敏!」
久美はコントローラーを放り出し、正敏に抱き着いた。
「どうしたの? ねえ、どうしたの?」
訳が分からず正敏が困惑する。
しばらくして久美は顔を上げ、弟をじっと見詰めて言った。
「マー君。いい? よく聞いてね」
「……うん」
正敏の顔が真剣なものに変わった。金太郎のような眉になっている。
「パパとママを大事にしてね……頼むわよ」
「うん」
「もっと大きくなって、大人になってからもよ。ねっ?」
「うん」
「勝手なお願いだけど……マー君にしか頼めないから……ごめんね」
「うん。分かった。……でも」
「ん? なあに?」
「オネーチャン、どっか行っちゃうの?」
その言葉を聞いて、久美の顔が一瞬、クシャっと崩れる。が、何とか持ちこたえた。
「……もし、そうだとしても、マー君は強いから大丈夫よね? 泣かないよね?」
「……うん」
正敏はもう半べそをかいていた。
「じゃあね、マー君。頼んだわよ!」
耐え切れなくなり、久美はそう言い部屋を飛び出した。
「オネーチャン……」
正敏は去って行く姉を見ながら泣いていた。
久美は自分の部屋に戻り、バッグを取って、泣き声を押し殺しながら階段を下りて行った。
― ママ、パパ……ごめんなさい!
心の中でそう叫び、久美は表に出て行った。
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