黒鍵
「久美さん! 休みだからって、いつまでも寝てちゃダメでしょ!」
頼子はそう言って布団をめくろうとした。が、久美がしっかり掴んでいて離れない。
「う~ん……頭痛いの。おまけして、ママ」
布団の中に潜り込んでしまう。
「当り前よ。いくら暖かいからって、あんなにびしょ濡れで帰ってきたら、誰だって風邪ひくわ」
「う~ん……」
一向に起きようという気にならない久美に、頼子は呆れ果てた。
「もう……。今日、ピアノの日でしょ。どうするの? 行かないの?」
「う~ん……」
「この前も休んだのに……そんなんじゃ、いつまで経ってもうまくならないわよ。だいたいあなたは」
「あーっ、もう分かった! 行く行く!」
ようやく久美は上体を起こした。
でも、まだベッドから降りようとはしない。すぐには動けないらしかった。
「早くね」
そう言うと頼子は階下に降りて行った。
「ふう……」
極度の低血圧、といった様子で、目はまだ半分閉じたままだった。
5分ほどしてようやくもぞもぞと起き上がり、着替えを始めた。パジャマのボタンを上から順にひとつひとつ外してゆく。色が白く、きめの細かい肌があらわになってゆく。
ブラジャーを付けて寝るから胸が大きくならない、と、久美はいつも友達にからかわれている。確かに、今の高校生としては少し発育不足と言わざるを得ない。が、全体のバランスは非常によく、カーテンの隙間から射し込む光を浴びた久美の肢体のシルエットは美しいものだった。
スリップを着てドレッサーの前に座る。
長い髪にブラシを通し始めると、知らぬ間にまた昨日の公園での光景が頭に浮かんでくる。
― あの人、泥だらけだった……どういう人なんだろう……
久美は、どうしても気になって仕方がなかった。頭痛がするのも風邪のせいではない。寝不足のためだった。明け方まで、そのことを考えていたのだ。
― この辺の人かな……
男はしばらくして、急に思い出したようにどこかへ消えて行った。
― もう、会えないのかな……
「くーみー」
髪をとかす手を止め、考え込み始めていた久美を、階下から頼子が呼んだ。
我に返り、白に近いピンクのワンピースを身に着け、急いで階段を下りる。
「アラ? 朝ごはんは? もう昼だけど」
そのまま出て行こうとしている娘を見て、頼子がキッチンから呼び止めた。久美の祖母・寿江もいる。
「いらない。間に合わないもん。あっ、ママ、帰りにヒロと買い物に行くから」
靴を履きながら答える。
「何時頃になるの?」
「う~んと、夕方。じゃあ、行ってきまーす! おばあちゃん、行ってきます」
ニコッと笑い、寿江に手を振る。
「はい、行ってらっしゃい」
寿江も頷き微笑んだ。
そして久美が玄関のドアを開けようとした時、チャイムが鳴った。
頼子がキッチンのインターホンを取る。
「はい。どちら様でしょうか?」と言う母の声と同時に、久美が玄関を開けた。
門の向こうには制服の警官が立っていた。
「あの、警察のものですが」
戸惑い、久美とインターホンの、どちらにともなく答えている。
「は、はい!」
久美が警官に返事をして母親を呼ぶため中に入ろうとした時、ちょうど頼子が出て来て「いいわ。私が出るから」と、小走りに門の方へ向かった。
「何の御用でしょうか?」
門越しに訊く。
「はい……。つかぬことをお伺いしますが、20歳前後の不審な男を見かけなかったでしょうか?」
その警官はお決まり通り、恐縮した素振りで問い返した。
「はっ?」
頼子が怪訝そうな顔をする。
― あの人のことだ……
ドアの前に立って聞いていた久美は何となくそう思った。
「あっ、いえ、ちょっとした事件がありまして、犯人がこの辺に潜伏している恐れがあるのです」
「えっ? ……どういった事件ですの?」
頼子が恐る恐る訊く。
男が罪を犯して逃亡中だということは、その素振りからだいたい感じ取ってはいた。だから、この時はまだたいして驚きもしなかったが、警官の次の言葉を聞いて久美は動揺した。
「殺人事件です」
― えっ! まさか……
「えっ」
頼子は顔をこわばらせて後の言葉を失った。
「あっ、いや、と言いましても、まだ裁判をやってみませんと、殺人扱いになるかどうかは分からない、のですが……」
まだ箝口令が敷かれている捜査段階で民間人相手に口を滑らせてしまったその新米らしき警官は、しどろもどろになりながら取り繕おうとしていた。
「どちらにしても、その犯人がこの辺にいるというわけですね!」
恐い顔をして頼子が身を乗り出す。
「あっ、いえっ、……実は、それもよく分からない、のですが……」
気の弱そうなその警官は小さくなってしまった。
「はあ?」
「昨日、この辺りで見失ってから、警戒体制を取っているので、まだ、遠くには行っていないはずなんですが……」
「……」
「まっ、と、とにかく! そういうことですので十分注意してください! どうも、お手数をおかけしました。失礼します!」
そう言うと、その警官はそそくさと帰って行った。
「……あっ、ご苦労様です……」
頼子は警官を見送りながら、ポカーンとしていた。
― あの人が殺人犯だなんて……そんなはずはない!
「何なのかしら? ん……どうしたの?」
戻ってきた頼子が、玄関の所で立ち尽くしている久美に気付いて訊いた。
「……えっ、あっ、何でもない。で、お巡りさん、何だって?」
「さあ。今の人がよく知らないってことだけは分かったけど」
「そう……」
久美がまた考え込む。
「ほんとに……どうしたの?」
「……あっ、ううん!」
「そう? じゃあ、早く行かなきゃ、遅れるわよ」
「うん、行ってきます」
そう言うと久美は急いで門を出た。
「変な子ねえ」
頼子はそう、久美の後姿に呟いた。
20メートルほど行ってから振り返ると、頼子はまだ中に入らずこちらを見ていた。久美は慌ててまた前を向き、歩き始めた。
この辺りは高級住宅地で大きな家が多い。どこも100坪前後の敷地は保有している。かなり古い建物もあり、中にはもう何年も人の出入りがなく、住んでいるのかいないのかよく分からないような家もあった。恐らく、どこかに移ってそれまで住んでいた家をそのまま放置しているのだろう。
棒切れを持って走り回る男の子。
子供を勝手に遊ばせておいて会話に熱中している主婦たち。
久美はその見慣れた町並みを駅に向かって歩いた。
昨日の雨が嘘のように空は晴れ渡り、6月下旬で既に真夏の暑さだった。
その陽気とは裏腹に、久美の気分は重く暗いものだった。
― あの人が人を殺したなんて……
またあれこれ考えながら久美が俯き加減に歩いていると、前から背広姿の2人連れがやってきた。だんだん近づいてくる。
若い方の男が年配の男に何やら文句を言っている。
「ネーッ、西谷さん。何か食いましょうよ」
「まだダメだ」
― 何かの間違いよ……
「でも、朝早くから何にも食ってませんよ」
「……」
― あの人のことじゃないんだわ……
「こんな真っ昼間に、工藤がウロウロするわけないでしょう」
― そうに決まってる……
「ヤツを捜すのだけが仕事じゃねえだろうが」
― そうよ……
「そりゃ、分かりますけどね。でも」
すれ違う。
久美も男たちも同じ人物のことを考えていることを、この時はまだ知らなかった。
そして久美は、自分の中で何かが変化し始めていることに、まだ気付いていなかった。