夜想曲 ~逃れの果てに~・変ロ短調②

 

前へ    次へ

トップページ

 

夜想曲・変ロ短調②

 

「……たまには踊ってるのか?」

洸一は視線を外して訊いた。目で会話すると気持ちが高まりすぎて、男の洸一には耐え難く、長時間は無理のようだった。

「ううん……滅多に踊らない」

「じゃあ、あの日は偶然」

「そう」

「ふ~ん。そうか……」

訳は訊かなかった。その必要を感じなかったからだ。

 

スポンサーリンク

 

「ねえ」

「うん?」

「これからどうするの?」

「……そうだな。いつまでもここにいるわけには行かないからな」

「……」

久美が少し不安げな表情になった。それを見て洸一が笑う。

「昔、家族で行った山があるんだ。そこへ行こうと思う」

「遠いの?」

「う~ん……ここからだと、車で高速使って、麓まで4・5時間ってとこかな」

「ふ~ん。なぜ、そこへ?」

「うん……」

洸一がちょっと照れ臭そうに笑った。

「長くなるぞ」

久美は答える代わりに座り直し、じっくり聞く体勢に入る。それを見て洸一は話し始めた。

 

ビューティーリフトアップブラ

 

「俺が6つか7つの頃だ……親父とおふくろは大学のワンダーフォーゲル部で知り合ったぐらいだから、かなり本格的な登山だった。俺は親父におんぶされたり歩いたりで、何とか頂上まで辿り着いた……着いた時には完全にへばってたけどな」

「フフッ」

「夕方になり、帰るという頃になって、俺はちょっとした軽い気持ちから1人で散策に出掛けた。せっかく体力が回復したと思ったら帰るじゃあ、何か悔しかったんだろうなあ……。案の定、俺は迷子になった。じっとしていれば、まだ見つけてもらえたかもしれないのに、動き回ったから余計に分からなくなってしまった。俺は自分の馬鹿さ加減を呪った。暗くなってくる。俺はベソをかきながら必死で歩いた」

「……」

久美の表情がだんだん心配そうなものに変わってきた。

「どんどんどんどん歩いて行って、もう何日も経ってしまったような気がしてきた。朝が来てないんだから、そんなわけはないんだけど、その時の俺はとにかくそう思った……その頃にはもう涙も枯れ果てていた。俺は歩き疲れてへたり込み、ぼーっとしながら考えた。これはもう、ここで1人で暮らさなきゃならないんじゃないかって、本気で考えた。もう親父やおふくろには会えないんだって……そして俺は知らぬ間に、そこで眠っていた……」

気が付くと久美はポロポロ涙をこぼしていた。

「お、おいおい……泣くなよ」

「……だって……可哀そうなんだもん」

「う~ん……心配するなって。この子は死んじゃったりしねえから。ほら! ここにちゃんと生きてるだろ? なっ?」

そう言って洸一は手を広げて見せた。

「……うん。そうだね。エヘッ、気にしないで続けて」

久美は涙を拭き、笑顔を作った。

「んとに……なんちゅう涙もろい奴だ」

洸一は呆れ顔でしばらく久美を見ていたが、相手が落ち着いたのを見計らって、ゆっくりとまた話し始めた。




「……明くる朝、目を覚ますと遠くで水の音がするんだ。前の日は全然気付かなかったけど、川の近くに来ていたんだな。俺は喉が渇いてたし、音の方へ向かった。進むにつれ、だんだん明るくなってきて、水音も激しいものに変わってくる。もうすぐだ! と思い、俺は走った。……ハハッ」

「ん?」

急に笑い出した語り部に、久美が小首を傾げる。

「ハハッ。滝だった、川じゃなくて。勢い余って危うく落っこちるところだった」

「危ない……。あっ、じゃあ、もし前の日もう少し歩いてたら」

「ああ。俺はここにいなかったかもな」

洸一は笑っていた。

「……」

久美はなぜか怒っていた。

「そこは凄い滝だった。周りの景観も素晴らしいものだった……子供の頃だからそう思ったのかもしれないけど、俺は長い間見とれていた」

久美はまた聴き入っていた。

「だいぶ経ってから、俺は自分の立場を思い出し、川に沿って下って行った。まあ、それで数時間後に捜索隊に発見されるわけなんだけど……麓に降りて、両親と顔を合わせた時だけはさすがに参った。すごくやつれてんだ。たぶん一晩中捜してくれてたんだろうなあ……。2人とも俺を見て一瞬、ものすごい怖い顔すんだ。あっ、これは張り飛ばされるって、思った。……だけど、俺が済まなそうにテコテコ近寄って行くと、顔がくしゃくしゃに崩れて、泣き出した。どうしたのか、と思っていると、今度は微笑みかけてくんだ。怒ったり泣いたり笑ったり……その時の俺には訳分かんなかった。……でもな……俺、その顔見た時……嬉しかった。何でか分かんなかったけど、ものすごく感動した……あれほど感動したことは他にはない。……俺、2人にむしゃぶりついて、思いっきり泣いた……」

洸一の声が幾分鼻声になり、少し震えていた。

「そう……」

久美もまた涙を浮かべていた。

「あっ……」

「えっ? なに? どうしたの?」

「もう一回だけ……ついこの間……あった」

洸一が久美を見詰める。

「えっ? ああ……フフッ」

意味を理解し、久美は嬉しそうに笑った。

 

 

「くだらないこと、長々としゃべっちまったけど……とにかく、そこで見た滝がすごくきれいだったん思うんだ。だから、そこへおまえを……」

「……」

2人は、また目で会話し始めた。

その時、誰かが勢いよく部屋に飛び込んで来た。

「!」

洸一が立ち上がって身構える。

暗闇から姿を現したのは敏男だった。

「パパ!」

「久美! 何してんだ!」

「えっ? おまえの……」

洸一が久美の方を向く。

「そう……ごめんなさい……」

「久美、そいつは誰だ」

「えっ……この人は……」

答えられない久美を見て、敏男が辺りを見渡す。

「こんなとこに寝泊まりしてるってことは……もしかして、あの……。お、おまえ! 私の娘から離れろ!」

「パパ! やめて!」

「……」

洸一は黙って立っていた。

「久美! こっちへ来い! そいつは殺人犯だぞ! ……オイ、おまえ、そうなんだろ?」

その問いに洸一は答えなかった。無表情のまま敏男を見ている。

「パパ、やめて。お願い……」

久美はその場にへたり込んでしまった。何もかもがぶち壊しだ。彼女はそう思った。一般で言う犯罪だとか社会の規範などというものは、恋する乙女には関係ない。

「警察には黙っといてやる。だから大人しく娘を返して、どこへでも消えろ!」

「パパ……この人は悪い人じゃないの」

「バカ! 何言ってんだ、久美。早く帰るんだ。……おまえも自首した方がいいぞ。逃げ切れるわけがない。まだ若いんだ。それからやり直しても遅くないんじゃないか? さあ、久美、早く!」

洸一から目を離さず、久美の方へ手を差し出してにじり寄る。

「……分かったわ……じゃあ、少しだけ時間をちょうだい。そしたら帰るから」

「! さっきから何をバカなことばかり言ってるんだ!」

娘の腕を掴んで強引に引っ張る。

「イヤッ! じゃないと絶対帰らない!」

久美はその手を振り解き、すごい形相で喚いた。

「久美……」

敏男の勢いが急に弱くなった。表情もいつもの娘に甘い父親のものに戻っている。

「……分かった。1分だけ、1分だけだぞ? それでいいな?」

しばらく思案した結果、敏男は譲歩した。どうせ出口は1つしかないのだ。洸一はまだしも久美が窓から飛び降りられるはずもないし、窓を開ける音がしたらまた飛び込んでくれば良いだけだ。敏男には、娘さえ戻ってくれば、洸一が逃げることなどどうでも良いことだった。

「うん」

久美が落ち着きを取り戻したのを確認してから、敏男は梯子を降りて行った。それを見て、久美はすかさず立ち上がり、洸一に近付いて手を取る。

「……どうする?」

何とも言えぬ表情をしている。

「ほとぼりが冷めるまでは、と思っていたが、明日、発つ」

「何時?」

「午後10時。埠頭からいったん船に乗る。それまではどこかへ姿をくらます」

久美は洸一をじっと見詰めていた。

「俺は、迷惑がかかるから近付くな、などと、思ってもいないことを言う気はない」

「……」

意味を理解し、久美は頷いた。

「でも……やっぱり自首して。ねっ? あなたに危ないことさせたくない」

「! おまえまでそんなこと言うのか! そんなことしたら、おまえと……」

「違う! だから……私は大丈夫よ。私はずーっと……」

久美は目で必死に語った。

だが洸一は、

「帰れ! お前の顔なんて、もう見たくもない。帰れ!」

と、背を向けて怒鳴った。

「……」

久美は茫然として目を見開いていた。深くて暗い淵を覗き見ているような目をしている。恐らく、そんな気持ちだったのだろう。

「もういいだろう、久美」

敏男が頃合いを見計らって入って来ながら言った。

「彼もああ言ってるんだ。さあ、帰ろう」

父親は優しく久美の腕を引いた。

久美は失意のあまり、もうそれに抵抗する力は残ってはいなかった。

「……」

2人が出て行き、洸一はそれを確認してから椅子に座った。そして遠い目をして、何かを考えていた。

 

スポンサーリンク

 

応接室に久美と敏男、そして母の頼子がいた。

久美はソファーの方に座り、まだ先ほどのショックから立ち直れず、ぼーっとしていた。その久美と向かい合わせに、1人掛けの椅子が2つ並べて置いてあり、後の2人が座っている。

2人もしばらくの間、黙って久美を見ていた。

― ほんとに、もう私に会いたくないの?

久美は洸一の最後に言った言葉が頭から離れず、何度もそれを反芻していた。

「久美はな、優し過ぎるんだ。だからアイツに同情してかくまったりしたんだ」

「そうよ。世間知らずだしね」

2人は質問する代わりに答えを勝手に作り出し、納得しようとしていた。

「……」

久美は何も言わなかった。そんなことはもうどうでも良かった。

「いいか、久美。これからはああいうタイプの男には近付くんじゃないぞ」

諭すように敏男が言う。

「ほんとよ……。もう、なんて悪い男なんでしょう。人まで殺しておいて、この子の純粋さに付け込むなんて」

「あの人は……そんな人じゃない!」

久美が急に頼子の言葉に反応して大声を出した。洸一のこととなると黙ってはいられないようだった。

「まだ言うか! このバカ野郎!」

敏男が立ち上がって怒鳴る。

「えっ? あなた、まさか……」

頼子は2人の雰囲気から、ようやく本当の事情を把握した。

「……ふ~ん」

敏男は少し落ち着きを取り戻し、座った。

「……久美さん、嘘でしょ?」

呆然としていた頼子が我に返って訊いた。が、久美は何も答えなかった。

「そ、そんなこと! そんなこと絶対許しませんよ!」

今度は母親の方が頭に血が上って叫んだ。敏男がそれを見て手で制す。

「ママ。ママはちょっと黙ってろ。……いいか久美。おまえはな、勘違いしてるんだ……思春期の女の子には誰でも一度はあることなんだ。おまえはオクテだから、それがちょっと遅く来ただけなんだ」

「そんなんじゃない……」

久美が俯いたまま、ぽつりとそれだけ言った。

「いいや。おまえにはまだ分からないだけだ。大人になれば分かるようになる。ああ、あれは間違いだったんだなあって」

「……」

「言葉が気に入らなければ、憧れ、と言い換えてもいい……おまえにはもっと普通の男の方が合う。平凡が一番なんだ」

「普通、平凡……分かってる。でも、それができない人もいるのよ。それに……間違いじゃないわ。感じたもの」

久美が静かに敏男を見る。

「久美……訳の分からんことばかり言うな。あんな男と一緒にいて、先に何があると言うんだ。檻の中か?」

「そんな、後先のことなんて」

「関係なくないぞ。先が見えてる交際に、何の意味がある?」

「……」

「今は、この人だけだと思っても、そんなことはない。また後でいくらでもいい人が見つかる……そういうもんだ」

久美はもう何も言わず、ただ俯いていた。

 

 

「さあ、もうこんなことは忘れて早く寝ろ。ママも」

敏男が後の方を頼子に目配せして言い、立ち上がった。

「えっ? あ、はい……そうね。そうよね。フフッ。パパ、明日もお仕事だから、もう寝なくちゃ」

意味を理解した頼子もそう言って立ち上がる。

久美は俯いたまま、無言で立ち上がった。

「久美さんも休みだからって、いつまでも起きてるんじゃありませんよ。朝、起きられないんだから」

頼子が久美に微笑みかける。が、久美は無表情のまま2階に上がって行った。

「……」

その場に残された2人は、心配そうに階段を見上げていた。

 

スポンサーリンク