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小犬
電車とバスを乗り継いで、埠頭近くに着いた頃には、久美もようやく落ち着きを取り戻していた。
― しっかりしなくちゃね……あの人の足手まといになる……
久美は自分を鼓舞しながら歩いた。
汽笛が聞こえ始め、目的地が近いことを告げていた。
時計を見る。
思ったよりも早く着き、時間までまだ15分あった。
久美は今、人気の全くないトラックが通るための、だだっ広い通りに沿った歩道を歩いていた。埠頭に入るには、ここを通るしか方法がない。
この道は非常に見通しがよく、ブラインドになっているのは僅かに船着き場近くの倉庫の陰だけだった。
― もう来てるかな……
久美がそう思った時、背後から車が1台、猛スピードで突っ込んできた。ライトをハイビームにしている。
久美は振り返って見た。額に手をかざす。が、まぶしくてよく見えない。
彼女がまた前を向いて歩こうとした時、遠くの倉庫の陰から人が数人、バラバラっと飛び出した。
「!」
暗くてはっきりしないが、久美はすぐ警官だと分かった。
「……なぜ……」
驚愕し、立ち止まる。
そこへ後ろから来ていた車がスピンターンで来た方向を向き、歩道に横付けする。
「えっ?」
驚いていると、勢いよく助手席側のドアが開いた。
「乗れ!」
洸一だった。
パトカーがサイレンを鳴らし、こちらに向かってくる。
「あっ、うん!」
答え、久美が乗ろうとする。
「くみ―っ!」
声のする方を見ると、敏男がバス停の方から走って来た。どこかに隠れていたのだろう。
「パパ……」
久美が動作を止める。
「久美、行くな!」
叫びながら走ってくる。
反対側からパトカーが来る。
洸一はじっと久美を見ている。
久美は決心した。
「ごめんなさい! パパ!」
彼女は車に飛び乗った。
「はっ……」
それを見て敏男が一瞬、立ち止まる。
ドアが閉まる前に車は発進した。久美が慌ててそれを閉める。
「ウオーッ!」
速度を上げる車の前に、敏男が獣のように咆哮しながら飛び出してきた。
「キャー!」
久美が叫ぶと同時に、洸一はハンドルを右に目一杯切ってそれをかわす。
転ぶ敏男。
反対車線の街灯に車をぶつけながらも立て直し、そのまま突っ走る。
パトカーが危うく敏男を轢きそうになり、慌てて停止する。それに後続のパトカーが次々とぶつかり、追跡不可能の状態になった。結果的に言えば、娘を思う父親の気持ちが2人を逃がした形となった。
「パパ……」
久美は後ろを振り返り、泣き出しそうな顔をしていた。
「引き返すか」
洸一は前を向いたまま言った。その口調から、まんざらその気がないわけでもなさそうなことが感じ取れた。
「えっ……ううん。ごめんなさい。もう情けない顔しない」
久美は前を向き、きっぱりとそう言った。
20分ほど走って、車は脇道に逸れた。
適当なところで洸一は車を停め、サイドブレーキを引いてギアをローに入れ、クラッチから足を離してエンストさせた。
「降りるぞ」
「えっ、う、うん」
どうするつもりなのか、久美にはよく分からなかったが、とにかくついて行くしかなかった。
洸一は久美の腕を引っ張って走った。
5分ほど行ったところに、赤い車がエンジンをかけっぱなしで置いてあった。
洸一がカギを出し、その車を開ける。
「どうしたの? この車」
走り出してから久美は訊いた。
「ハハッ、かっぱらってきた」
「ああ……悪いんだ」
「ほんと……この車は返せないからな。さっきのは持ち主に帰るだろうけど、ちょっとへこんじゃったしな……」
洸一は笑いながら、しかし、本当にすまなそうにそう言った。
「でも、今、カギ持ってなかった?」
「ああ、これは他のカギ。ドアの錠は無理やりぶち込めば、たいがい開くんだ。イグニションの方はそうはいかないけどな」
「ふ~ん」
久美にはよく分からなかった。
「だから、エンジンがかけっぱなしだっただろ? 直結でかけたからだ。これはカモフラージュのために先を削って差し込んであるだけ」
洸一はイグニションのキーを指差して言った。
「でも、何で2台もいるの?」
「時間稼ぎだ。警察はさっきの車で手配するだろ? 一日逃げ切れればいいからな」
「あっそうか……なかなか知能犯だね。何度もやってるんじゃない?」
久美がニヤッと笑う。
「バーカ」
洸一も笑った。
「さあ、これでしばらくはゆっくりできるぞ」
「だけど検問とか」
「うん……でもな、裏道通って他府県まで行ってから高速乗れば、たぶん大丈夫だと思う。それで高速の切れ目まで行かず、その手前の名もないインターで一旦降りて、超えてからまた乗る。これを繰り返せばね」
「ふ~ん。よく考えたね。あっ、じゃあ、船に乗るっていうのは」
「ああ、嘘だ。お前の親父さんが聞いてて通報するかもって……念のためにな」
彼は言いにくそうに言った。
「……ごめんね」
「いや……それで普通だ。気にするな。親の、当たり前の行動だ」
「……」
久美は洸一の横顔を黙って見ていた。
― この人は、私なんかが全く知らない、いろんな辛いことを経験してきたんだろうな……
そう思うと彼女は胸が痛くなって、それ以上話せなくなってしまった。
しばらくして、洸一が久美の足元を見て言った。
「うん。山に登るんでしょ? だから運動靴も履いてきたよ」
久美が足を上げて靴を見せた。
「ハハッ」
「ん? 似合わない?」
笑う洸一に対し、久美が口をとんがらせて訊く。
「いいや。可愛いよ。食べちゃいたいぐらい可愛い」
「えっ」
頬を赤らめ、俯く久美に、洸一が言葉を継いだ。
「まるで小学生みたい」
「ん? もう!」
「ハハッ……」
洸一は笑い、久美は膨れていた。
「……来ると、思った?」
真面目な顔に戻り、久美は前を見たままポツリと訊いた。
「ああ」
洸一も前を向いたまま答える。
「危険まで冒して……もし来なかったら?」
「そんなことは、考えもしなかった……それに来なかったら、逃げる必要もなくなるしな」
「……」
久美は満足そうに俯いた。
「だけど、何でそんなこと訊く?」
「だって、もう顔も見たくないって、怒ったよォ」
「おまえの言いたいことは分かってた。怒ったのは……怒ったふりをしたのは、親父さんが聞いてると思ったからだ……なんだ、気付かなかったのか?」
「! ……ごめんなさい」
「迷いがあったから、読めなかったんだ」
洸一は静かにそう言った。
「……少し、迷ったの。ごめんなさい。でも、もう迷わない」
「うん。迷って当然だぞ。……俺は得るだけだが、おまえは失うものの方が多い」
優しい表情になっている。
― でも1つだけ手に入れたよ。大切なものを……
久美は恥ずかしくて言葉にはできなかった。
黙っている久美に洸一が訊いた。
「うん。洸一……さんだね?」
「うっ!」
洸一が情けない顔を、ゆっくりと彼女の方へ向ける。
「やめろよ、気持ちわりィ……さん付けなんて」
「じゃあ、洸一!」
「あのな」
「フフッ……いらないね」
「ああ。いらない」
「今まで知らなかったもんね」
「ハハッ。そうだな」
2人はそれから話すのをやめて、一体感を味わっていた。
高速に上がってすぐ久美は訊いた。
難なくここまで来てしまったので、彼女は逆にいろいろ心配になってきたのだ。
「ああ。ちゃんと前もって満タンにしてある。スタンドには寄れないからな」
「そう……」
「お前は何も心配しないで少し寝てろ。昨日の晩、寝てないんだろ?」
洸一は久美の疲れた顔を見て言った。
「うん。平気」
「無理すんな」
「だって、せっかく初めての遠出なのに、寝てたらもったいないもの」
「……あのねえ、俺たちはね、ドライブしてるんじゃないの。逃げてるの。知ってた?」
洸一は呆れ返っていた。
「うん。知ってた。でも」
「向こうに着いたらな、山、登んなきゃなんない。それ以外にも、いろいろやることがある。だから、そんなフラフラじゃあ困るわけ。……置いて行かれたい?」
「いや」
「じゃあ寝ろ」
「は~い」
久美は深く座り直して目を瞑った。
ものの1分もしないうちに、久美は微かな寝息を立て始めた。
「……」
洸一は久美の寝顔を見て優しく微笑んだ。どこか小犬を思わせる寝顔だ。
― 疲れてたんだなあ……
彼の顔から次第に微笑みが消えていく。
― 俺は、間違ったことをしているんじゃないだろうか……いや、そうに決まってる。だが……
洸一は心の中で自問自答していた。
― これで良かったと、思ってくれるだろうか……
深夜便のトラック以外、ほとんど仲間がいなくなった高速を走りながら洸一は、自分の隣で安らかに眠っている天使のことを、ずっと考えていた……。