4
少女に出逢った本屋に向かって、涼は歩いていた。あの日からもう一週間経っていた。
― いるだろうか……
捜す手掛かりは他に何もなかった。
前に来た時刻にはまだ一時間ある。彼はゆっくりと歩いた。
同じ時間に来るという保証はどこにもない。だが、それを言うなら今日来るかどうかも分からない。いずれにせよ、運に任せるより他なかった。
自分で念動以外の能力を持っていないと思っている彼だったが、なぜか今日会えるという気がしてならなかった。
― しかし……早乙女の奴……
今の涼にはもう一つ気になることがあった。早乙女のことだった。今日の理科の授業時間、また癇に障ることを言ったので、今度は背広を引き裂いてやった。そこまでは良いのだが、どうしたことか放課後に呼び出しを食らい、その時、早乙女はいつになく情けない表情で哀願するように言った。
― 俺をいじめないでくれ、か……なぜ、俺がやったと分かったんだ……
考えているうちに本屋に着いていた。
店内を一周したが彼女はいなかった。仕方なしに涼は、彼女が立っていた棚の所に行き、本を一冊選んで読み始めた。とにかく時間の許す限り待つつもりだった。
「ふう……」
涼は失望をあらわにして本を閉じた。自分が求めていることは何も書かれていなかったからだ。
棚にその本を戻す。
外を見ると、もうすっかり陽は落ちていた。彼は速読型だったが、それでも来てから三時間近く経っていた。
知らぬ間に来て帰ったということは有り得ない。読んでいる間も精神を解放し、《気》に対して敏感な状態にしておいたからだ。
― まずいなぁ。もう帰らなければ……今日はダメか……
そう思い、涼は諦めて帰ることにした。
そしてちょうど出口に差し掛かった時、彼は驚いて立ち止まった。飛び込んできた彼女と鉢合わせになったからだ。
「……」
彼女も涼を見て立ち止まる。
― また、あの感じだ……
彼は前と同じく《気》の交流に酔いそうになったが、慌てて自分の《気》を遮断した。ようやく会えたのに、いざとなるとやはり怖くなったのだ。
涼が無言で彼女の横を擦り抜ける。
「わたし!」
それを呼び止めるかのように彼女は大きな声で言った。
涼が動作を止める。そして腹を決めてゆっくりと振り返った。
「……」
じっと彼女を見つめる。
「水沢……理恵です。今日はちょっと用があって遅くなりました」
彼女の言うことに涼は黙って頷いた。
二人は駅近くの喫茶店に入った。
ホットコーヒーを注文し、それが運ばれてきてからもなお、二人は黙ってただ互いを見つめ合っているだけだった。《気》の交流に酔いしれているのだ。
「……」
涼は爆発寸前だった。初めのうちは前回同様、母体に包まれているような感じだったが、それがだんだん艶めかしくまとわりつくようなものに変わってきて、涼を官能の虜にしていた。《気》は感情の変化で様々な作用をもたらすようだった。
彼は戸惑っていた。女性に対してそういった感覚を持ったことが初めてだったからだ。不思議なことに、今までどれほど色っぽい女性を見ても感じたことがなかったのだ。
「年は? いくつ?」
耐え切れず、彼は口を開いた。
「16……高1です」
その少女・理恵は微笑みながら答えた。
「そう……あっ、春日涼。17、高2。Y市に住んでる」
「ふふっ……私はK市です」
「そう……。待っててくれたんだね? あの日から毎日」
「はい」
「ありがと。それから、ごめん」
「いいえ……」
二人はまた黙り込んだ。
いっぱい話したいことがあるはずなのに、なぜかその必要性を感じなくなっていた。黙っていても気持ちが通じている気がした。
しばらくして店を出た。駅に向かう間も二人はずっと黙ったままだった。
改札を抜けてから涼は一言、
「俺はここの人間ではないような気がする」
とだけ言った。
「うん……」
理恵は静かに頷いた。
帰る方向が逆なため、離れたくない気持ちをなんとか抑え、二人はそこで別れた。
5
早乙女が真面目に授業をしている。
涼は板書している彼をただぼんやり見ていた。別に怒っているわけでも監視しているわけでもない。今の彼は理恵のことで頭がいっぱいだった。
初めてのデートの日から毎日のように会っていた。話らしい話もせず、手も握らない《気》のデートだった。それだけで普通の恋人たちが話し合うのよりずっと理解し合えるし、単純な交尾よりももっと素晴らしい快感が得られるのだ。
「先生」
一人の男子生徒が早乙女を呼んだ。
「ん? なんだ?」
「最近、授業ばかりで面白くねえよ。前みたいに何かの批判でもやってくれよ」
「えっ」
ビクッとした彼に向けて、皆「そうだ、そうだ」と囃し立てる。
「う、う~ん……」
困った表情で早乙女は、涼をちらっと盗み見する。涼は相変わらずぼーっとしていた。
「い、いや! やはり、やめておこう」
「なんでだよォ!」
「もうすぐ定期テストだしな……」
「じゃあ、また手品見せてくれよ」
「ばかっ。その手品をされないために……」
「えっ?」
「いやっ、あの、なんだ……安月給なのに、そんな度々一張羅、破いてられるか」
「だけどよォ」
早乙女はブーイングを無視して授業に戻った。
― なぜアイツには俺の仕業だと分かったんだろう……
涼はまたそのことを考えたが、思考がすぐ理恵のことに流れ忘れてしまった。そんなことはもうどうでも良かった。
― 理恵、どうしてるかなぁ……
涼は、彼女と《気》を交わらせることによって、次第に現実離れ、人間離れしていく自分を感じていた。以前より、あの力が強くなってきているし、それと共に世間に対する不満が抑え切れなくなってきていた。
「よし! じゃあ、今日はここまで。起立!」
ボケッとしている間に授業は終わっていた。涼が慌てて立ち上がる。
「はい。礼! またな」
そう言い帰りかけた早乙女は、扉の所まで行って立ち止まり、振り返った。
「あっ、か、春日」
弱々しく涼を呼ぶ。
「? ……はい」
いったん座りかけた涼は声の方を向いて返事をした。
「あっ……あの……」
「何でしょうか」
「いや……あ、いやいや、いい。別に何でもない。悪かった」
早乙女は片手でナッシングを示し出て行った。
「……」
涼が訳が分からずぼーっと突っ立っていると、またそこへ中山がやってきた。
「春日」
「ん? ああ、なんだ?」
「おまえ、今日どうすンだ? 花の土曜日だっゼ―」
「別に。どうもしないよ」
「だろ? だろだろ―っ! 涼ちゅわん!」
涼にしなだれかかる。
「なっ、なんだよ……えらくノッてるな」
「今日な、親、旅行でいねえから俺ン家でパーチーやンだ。おまえも来い!」
「えっ、俺は……いいよ。酒飲めないし」
「んなこたァいい。ジュース飲んでりゃいい。千尋も来るぞ」
涼の肩をぽんぽん叩きながら言う。
「山崎か……あっ、おまえ、それで機嫌が良いのか?」
「はい! ハイハイ、気分もハイ! なんつって、ハハッ」
「でも……それじゃあ、なおさら俺は行かない方が……」
涼は幾分、気を遣いながら言った。中山がその言動とは違い、真剣に山崎千尋に惚れていることを知っているからだ。
「ダメ。千尋にはもうおまえが来るって言っちまった」
「おまえなぁ……」
「そうでも言わなきゃ、あの真面目な彼女が来るか? いいな? 7時からだぞ。分かったな?」
「う~ん。……ああ、分かったよ」
しばらく思案してから涼は了解した。
「よ―し! それでいい! ほんじゃま、7時に。バイビー!」
中山が、涼の気が変わらぬうちにと、さっさと逃げる。
「ふ~ん……」
涼は呆れ顔で彼の後姿を見送った。
理恵が現れるまで中山はただ一人の信頼できる友達だった。涼のことをかなり理解している。その彼が、最近は前以上に孤立してきている自分を思って言ってくれていることを、そうむげにも断れなかった。それに7時ならいったん理恵に会ってから行けば良かった。
「ま、いいか」
そう呟き、涼もカバンを取り帰って行った。