街の片隅で…・2章②

 

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洋風の瀟洒な造り。築十年といったところか。室内の灯りが広い庭を照らし出している。お屋敷、御殿と呼ぶほどのものではなく、誰もがいずれはこんな暮らしがしたいと願うぐらいの程好い豪華さだった。

その高台の高級住宅地に位置する藤沢家のリビングルームでは、親子による口論が展開されていた。

「さとみ! 何を言ってるの!」

母の静江は血相を変えてソファーから立ち上がった。

「だから私は産みたいのよ!」

彼女も立ち上がる。顔をくっつけて睨み合う。

「座りなさい」

父の正造がそれを制す。仕方なく母娘は主の言葉に従った。が、まだ睨み合ったままだ。

 

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さとみは家に帰ってすぐ両親に自分が妊娠していること、父親が誠であることを話し、産むという意志を伝えた。反応は予期した通り驚きと怒りだった。テーブルを挟んで向かい合わせに座っている3人には、重苦しい雰囲気が漂っている。

「さてと……じゃあ、そろそろ年寄りは退散するとしようかね」

それまでじっと黙って3人のやり取りを聞いていた祖母の志乃が、間を外すためかのようにのんびりした口調でそう言った。よっこらせ、という老人特有の掛け声とともに、自分専用のロッキング・チェアから立ち上がる。

「おばあちゃん……」

部屋を出て行こうとする志乃に、さとみは助けを求めるような情けない顔をして声をかけた。

その声に志乃は振り返ったが、孫を見て微笑み2・3度頷いただけで、何も言わずにその場から立ち去った。

正造はそれを見送ってから、

「さとみ。おまえは18だ。若すぎる。それに産むとか結婚だとか言ったって、そんな簡単なことじゃないぞ?」

と、静江とは違い、感情的にならずに話した。

「わかってる。でも……」

さとみも穏やかに答える。正造が滅多なことでは激することのない人間だということは知っている。が、さすがに今度だけはどやされるだろうと思って構えていたから、父のこの落ち着き払った対応には正直いって拍子抜けしてしまった。

「う~ん。今回は見送った方が賢明だと思うがなあ……。津川君だって、大学があるだろう?」

「働くって」

それを聞いて、正造が嘲るような笑みを浮かべる。

「生活していけるわけがない。泣きついてくるのがオチだ」

「パパには迷惑はかけない」

カチンときた。それが語尾に表れている。彼女の気性は母親ゆずりだった。

「だが、彼の家はあまり裕福じゃないんだろう?」

「関係ないじゃない!」

父は激することはない代わりに、自分の意志を曲げることも滅多にない人間だということを、さとみはようやく思い出した。そうでなければ裸一貫から今の地位、大企業の子会社だとはいえ、社長という肩書を得ることはできなかっただろう。

「お金持ちかどうかななんて、どうして関係あるの! 関係ないじゃない!」

さとみがまたケンカ腰に戻った。そうなるとすかさず静江が口を挟む。

「そんなことはありません! ……さとみさん、私たちはね、あなたに苦労させたくないの。分かるでしょ? 今みたいな楽な暮らしはできなくなるのよ? いくら掃除してもきれいにならない家に住んで、おいしいものも食べられず、そんなブランドものなんて着られないわよ? 子供がいたら尚更だわ」

と一気にまくし立て、さとみが着ている水色のワンピースを目で示す。

「……」

何も言い返せなくなった。彼女自身、心配していることだったからだ。敗者よろしく俯いてしまう。それを見て正造が追い打ちをかける。「そうだぞ。お金がないと大変なんだ。生まれてくる赤ん坊もかわいそうだ」

尤もらしいことを尤もらしい口調で言う。

「……分かってる。分かってるけど、でもお願い! 産ませて! じゃないと、彼とはもう……」

立場が悪くなり、さとみは勢いを失いかけたが気力を振り絞り、何とかそれだけ言ってまた下を向いた。

「何だ? おろしたら、津川君とはうまく行かなくなるって言うのか?」

その問いに、さとみは無言で頷いた。

「ふ~ん……」

正造は溜め息を付いて深くソファーに座り直した。

 



 

この子を産まなければマコトとは終わりになる……そう思った。なぜだかは分からない。でも、今日の彼を見てそう確信していた。別れるのは絶対にイヤだ……

誠といるといつも憎まれ口を叩いて、自分を優位に、追いかけられている立場にしておこうとする彼女だったが、実際には彼を深く愛していた。

「さとみ……もしそうだとしても、それならそれで良いんじゃないか?」

正造はしばらく間を置いてから言った。それは考えていたからというよりは、タイミングを計っていたからのようだった。

「えっ?」

さとみが驚いて顔を上げると、父親は膝の上で手を組みこちらを見ていた。

「そうよ。あなたは藤沢のひとり娘よ。相手はいくらでも見つかるわ」

横手から母親も言う。

「……なに、を言ってるの?」

さとみは自分の耳を疑った。が、正常に機能していることを2人の言葉が否応なく知らしめる。

「分かるだろう。男は津川君だけじゃないってことだ」

「そう。パパのお知り合いの息子さんだとか……結婚は2人だけの問題じゃないのよ。相手方の家族と親戚になるわけだから、やっぱり家柄とかも少しは考えないと。パパの体面もあることだし……ねっ? そうでしょ?」

正造もそれに頷いている。さとみはしばらく唖然として2人の顔を見比べていたが、次第に表情が険しくなってきて、

「そういうこと」

と睨んだ。

 



 

「パパもママも、マコトと付き合ってること自体、反対なわけね」

「いや、別にそういうわけじゃないが……」

「そうじゃないの! そう言ってるじゃないの!」

彼女は立ち上がって叫んだ。

「落ち着け」

父親が顔をしかめ、両手で座るように指示する。が、それぐらいのことで火の付いた彼女を止めることはできない。

「真剣に私たちのことを考えてくれていると思ってたのに……何よ、それ? パパの体面?」

「いや……」

「あのね、さとみさん、ママはそういう意味で……」

「そんなもののために!」

正造と静江は同時に弁解しようと話し出したが、さとみの怒りがそれをかき消した。

「そんなもののために私は生きるの? 私はあなた方のおもちゃ? 社交の道具? 冗談じゃないわ!」

「さとみ……」

「家柄? 藤沢家? うちだって元は貧乏じゃない! パパだって中卒の叩き上げじゃない! 別に血統書付きってわけでもないわ!」

「なっ……なんてこと言うんだ!」

さとみの頬が鳴った。さすがに正造でも、最後の言葉は肚に据えかねるものがあったようだ。

「……」

一瞬、間を置いて、さとみの目にじわじわと涙が浮かんでくる。

「あ……」

それを見て、厳しかった正造の顔が困惑気なものに変わる。それはどこにでもいる娘に甘い父親の顔だ。手を上げたのは初めてだった。

「さ、さとみ……」

「何よ!」

さとみは泣きじゃくりながら父親に掴みかかった。

「わ、悪かった! 落ち着けっ」

慌てて娘の肩を押さえてなだめようとしたが、時すでに遅く、彼女は長い髪を振り乱して正造の胸板を叩いた。自分なりに悩み、抑えていたものがあっただけに、父親の平手は答えたようだった。それは父親とて同じなのだということに気付く余裕はなかった。

「落ち着け、さとみ!」

正造が手に力を込めて一喝する。それにより何とかさとみが大人しくなった。俯いたまま力なく突っ立っている。

正造はゆっくりと娘をソファーに座らせた。

「さとみ。いいか? よく聞くんだ」

自分も座り、彼は幼児を諭すのように話し始めた。

 

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「パパたちはな、何も言いくるめようと思ってるわけじゃないんだ。ただ本当のことを言ってるだけなんだ」

「そうよ、さとみさん……」

静江も優しい声で夫の言葉を肯定する。

「……」

俯いているさとみの顔は、乱れた髪で表情が分からない。

「おまえにはまだ分からんかも知れんが、この人だけ、この人以外に他はない、と思ったとしても……それはな、さとみ、間違いだ」

「……」

さとみがその言葉に反応した。顔を上げ、虚ろな目で父親を見詰める。

「そんなもんじゃないんだ、人間は……。おまえは津川君が初恋だろう? だからそう思うのも仕方がない。誰もが一度は経験する想いだよ……。でもな、実際にはそんなことはないんだ。彼と別れても、後でいくらでも良い人が見つかる……そういうもんだ。その時になって分かるんだ。パパの言ってることが……」

正造は静かにそう言ってさとみを見詰めた。母親も哀しそうな顔で我が娘を見ている。

「……」

さとみはまた俯いた。床の一点を見詰める彼女の目には、再び戸惑いが忍び込んでいた。




南の窓際に机が置いてあり、さとみはそこに入口に背を向ける格好で座っていた。彼女の左手に本棚、反対側の壁にベッドが横付けされている。ドレッサーとタンスは扉の横に並んでいた。女の子の部屋にしては割と簡素な、ほぼ正方形の部屋だった。

「はあ~っ」

溜め息を付き、机にもたれかかる。

 

 

パパの言う通りかもしれない……。でも、私はそうは思わない……そう思いたくない……。だけど産むとすれば、この家を出て行かなければならない……帰ってこれないかもしれない……その時になって間違いに気付いたら、あまりにも悲しい……

彼女はもう分からなくなっていた。

「ああ! もうどうすればいいの……」

耐え切れずに叫ぶ。

「どっちでもええ」

さとみの、誰にともない問いかけに答える声があった。

「えっ?」

彼女が驚いて振り返ると、半分開いたドアのところに祖母の志乃が立っていた。

「お、おばあちゃん……」

そう言うさとみに志乃は2・3度頷き、微笑んだ。

 

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