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「ああ……もうどうすればいいの?」
頭を抱える。そういう姿勢を取ると、長い髪で黒い膝掛をしているかのように見える。
さとみは恋人の津川誠と公園のベンチに腰掛けていた。晴れて高校を卒業し、短大の入学式を待つだけの一番楽しい時期なはずなのに、彼女の顔は憂いに満ちていた。
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「……」
誠の方はそれほど悩んでいるようにも見えない。黙って彼女を見詰めている。
「ねえ! どうするの? ……う~ん、そりゃあ、私だっておろすのは嫌よ。でも許すと思う? うちの両親が? ただでさえ頑固なのに……知ってるでしょ?」
「ああ」
誠は相手の慌てふためきようとは対照的に、ぼけっとした表情で答えた。
「もう!」
それを見て、さとみがよけいにイライラする。
「予定がめちゃくちゃじゃない……まだ子供なんて欲しくないわ! もっと遊びたいもの……やっと、受験から解放されて遊べると思ったのに……」
話をいったん切って誠を見る。相手が喋るのを期待しての行動だったが、無駄なことを悟って彼女は続けた。
「マコトと結婚するのは、いいわよ。でもそれは私が短大出て、あなたが大学卒業するまでの間に習い事したり海外旅行に行ったりして、それからでしょ? それから私は美術の先生の奥さんになるんでしょ? ……それに一緒になってからも当分は共稼ぎでお金ためて、週末には食事に行ったり映画見たり、連休には旅行したり……ああもう! どうするの……」
首を左右に振って力なく俯く。
「……」
誠は相変わらず黙って彼女を見ている。その顔は微笑んでいるようにも見えなくはなかった。
2人は高校1年の時の同級生だった。彼は芸術系の大学に合格していた。小さい頃から絵が得意で、2人の交際も、美術の時間に彼がモデルにさとみを選んだのをきっかけとして始まったのだった。その絵は今も彼女の部屋に飾ってある。ただの鉛筆画なのだが、それでも十分鑑賞に堪え得るものだった。誠には才能があった。しかし、だからといって、彼は美術の教師になりたいと思ったことなど一度もない。さとみが勝手に決め付けているだけだ。その方が確実だからだろう。彼は画家志望だった。
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「……」
誠は彼女から目を離して公園内を見渡した。
車の騒音がうるさい。四方を車道に囲まれているからだが、一応草野球ができるくらいのスペースがあるのだから、東京という土地を考えればまずまずといったところか。日曜日のせいで親子連れが多かった。
いまだ放心したようにぼんやりしているさとみのところへ、ピンク色のビニールボールが転がってきた。それを追って3・4歳ぐらいの女の子が嬉々として駆けてくる。
ボールはさとみの足に当たって止まった。女の子もそれと同時に止まる。少し離れた場所から投げ返してくれるのを待っている。
「……」
だが、さとみはぼーっとそれを眺めているだけでいっこうに拾おうとはしなかった。自分のことで頭がいっぱいでそこまで気が回らないのだ。
「……」
期待が外れて、ニコニコしていた女の子の顔が次第に困惑した表情に変わっていく。
誠がそれに気付いて、さとみをちらっと見てからボールを拾い、
「それっ!」
と微笑みながら投げ返した。
「ありがとう!」
ワンバウンドでボールをうまく受け取った女の子の顔にまた笑みが戻った。来た時と同じように元気に駆けて行く。
「……」
誠はそれを見送ってから、さとみの方に向き直った。しばらくの間、また黙って横顔を見詰めていたかと思うと、唐突に、
「産んでくれ」
と言った。
「えっ?」
虚を突かれ、さとみは驚いて顔を上げた。振り向くと、思ったより近くに微笑む顔があった。
「なっ……なに?」
狼狽を隠せない。
「こういうことも、当然あり得ることだと思っての行為だ。 ……俺は、うれしいよ」
彼の瞳に一段と優しさが増す。
「え……」
まともに視線を受け切れず、さとみはあらぬ方向を向きどぎまぎしていた。あまりにも突然だったからだ。
「ほんと、に?」
照れ隠しに小首を傾げて訊く。答える代わりに、彼はまっすぐにさとみを見て微笑んでいた。
「……え~っ……」
消え入るようなか細い声で意味もなくそう言い、伏目がちにちらちらと誠の方を盗み見する。勝ち気な彼女には自分でも信じられないような仕草だった。何が何だかさっぱり訳が分からない。頭の中がパニック状態になっていた。
「え~っ……」
日頃は極端なぐらい大人しく、物事の判断を全て自分に任せるこの無口な恋人を、さとみは驚きと喜びの入り混じったような表情で見ていた。彼女に対し、誠がこれほどはっきりものを言ったのは、この時が初めてだった。
心地よい風が、さとみの癖のない艶やかな髪をなびかせる。夕暮れが近付き、西陽が優しく2人を包んでいた……。
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