夜想曲 ~逃れの果てに~・変ホ長調②

 

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夜想曲・変ホ長調②

 

久美は前傾姿勢になり、風雨と戦っていた。

相手は急速に強くなってきていて、ともすれば傘を吹き飛ばされそうになる。折詰めはビニールに包んであるので濡れても大丈夫なのだが、それでも久美は必死で濡れないようにしていた。

 

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山内家の前まで来て、久美は何かを思い出した様子で来た道を引き返して行く。

自動販売機のところまで戻る。

傘をさし、折詰めを持っているので財布がなかなか開かない。やっと小銭を取り出した時強い風が吹き、傘が飛ばされてしまった。慌てて傘を取ろうとすると折詰めを落としそうになり、それをかばったために今度は小銭をばらまいてしまった。傘はどんどん遠くへ飛ばされて行く。久美は傘を諦め小銭を拾った。

悪戦苦闘の末、山内家に着いた時、久美はもうびしょ濡れだった。

誰も見ていないのを確認し、一気に飛び越える。屋根裏部屋の下に立ち、小石を拾って投げた。

1回、2回……3度目にしてやっと命中する。が、返事がない。

「……」

いないのかも……一瞬、不安が脳裏を過ぎったが、気を取り直してまたチャレンジする。

3発目が命中した時、洸一が窓から顔を出した。

久美は裏の方を指差し、そちらに回って行った。



「……」

裏口を開けた洸一は、何も言わず久美を見詰めてから、また奥へと戻って行った。

無表情な彼とは対照的に、久美は嬉し気な顔をしてそれに続いた。

彼女が2階へ上がった時、そこにはもう洸一の姿はなかった。が、この家のことは洸一よりよく知っているのだ。躊躇わず暗闇の中を進む。

廊下の突き当りに梯子が掛かっており、その先、天井には四角い穴がぽっかりと口を開けていた。久美が梯子を昇る。

 

 

屋根裏部屋に入ると、応接セットの肘掛け椅子が窓際に2つ向かい合わせに置いてあった。洸一はその右側に座り、窓の外を見ている。

「どうしたの? それ」

「下から持ってきた」

外を向いたまま答える。

「そう……」

久美はその2つの椅子を見比べて微笑んだ。

「嘘、ついたか」

窓枠に肘を付き、その上に顎を乗せて話し辛そうに訊く。警察に対してのことだ。

「うん」

久美は椅子のクッションを取り、それを床に敷いて座った。

洸一が久美の方を向く。

「悪かった。仕方なかったんだ」

椅子の横から久美のセカンドバッグを取り出して渡す。

「分かってる」

久美は笑って受け取った。

「……」

「ん?」

洸一の視線が自分の顔より下に注がれていることに気付き、それを追うと、

「あっ……」

雨に濡れたためにブラウスが身体にへばり付き、胸の谷間がくっきりと映っていた。

「……」

彼女は真っ赤になり、恥ずかしそうにブラウスをつまんで身体から浮かそうとしていた。

「脱げ」

「えっ!」

洸一の言葉に驚き、相手を見る。

「濡れたもの着てると風邪を引く。脱いでそこの毛布にでもくるまれ」

彼はそう言うと、また窓の方を向いた。

「あ……うん!」

久美はようやく意味を理解し微笑んだ。立ち上がり、毛布を持って外の光が射し込まない所に移動した。

 

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防音が行き届いていて、外の音はほとんど聞こえない。

静まり返った室内。そこに服を脱ぐ衣擦れの音だけが響く。

― 私、こんなに軽薄だったかしら……

男と2人きりになることがどれだけ危険なことかは、男性経験のない久美でも当然知っている。まして裸になるなんて、好きなようにしてください、とでも言わんばかりの行為だ。いくら理性的な男でも、2人きりで裸とくれば常軌を逸する。

久美は自分が信じられなかった。なぜか安心してしまうのだ。話し方もお互い馴れ馴れしいものに変わっている。それにも違和感を感じない。

「!」

気が付くと、ブラジャーのホックに手を掛けていた。慌てて元に戻す。さすがにそれは思い留まって、久美は下着の上から毛布を巻き、元の所に戻った。

またクッションに座り、洸一の横顔を見詰める。

― なぜだろう……

相手を信用しているためか、それとも、どうなってもいいと思っているためか、久美には分からなかった。

「……両方だったりして」

無意識のうちに声に出ていた。

「ん?」

洸一がこちらを向く。

「ううん! ……何でもない」

久美は慌てて言った。今まで考えていたことを、全て聞かれてしまったような気がしたからだ。

「あ、そうだ。これ」

思い出し、折詰めを渡す。

受け取った洸一は、それを開いてみた。

「……作ってくれたのか」

「うん。慣れなくて下手だけど」

「……」

彼はしばらくの間、黙って久美の作った弁当を見詰めていた。

「食べて」

割り箸を割ってやり、洸一の方に差し出す。動くたびに毛布がずれ、身体の一部分が露出する。

洸一は久美の白い肌をじっと見詰め、

「……俺、そっちの方が食べたい」

と笑いながら言った。

「えっ? もう……」

久美も笑った。

「いつかね……。あっ」

自分の口から飛び出した言葉に驚き、赤面する。

― 何を言ってるの、私!

「……」

冗談のつもりが思わぬ返事に、洸一も赤くなった。仇のように弁当を食べる。

「うっ!」

急いでかき込んだため、喉につかえた。

「はい、これ」

久美がビールを渡す。先ほど雨の中で苦労して買ったものだ。洸一が急いでそれを流し込む。

「ふう……」

ようやく落ち着いた様子で、彼は今度はゆっくりと食べ始めた。

久美はそれを微笑みながらずっと見詰めていた。



「……おまえ、俺が怖くないのか?」

しばらくして視線に気付き、洸一が訊いた。

「うん」

「警察がどういう容疑で俺を捜してるか、知ってるのか?」

「ええ。何か事情があったんでしょ?」

「事情があろうとなかろうと……人を殺したことには変わりない」

食べ終わり、洸一はまた窓の方を向いた。

物憂い表情。窓ガラスに伝う雨が、外の明かりで洸一の顔に映り、泣いているように見える。

久美は哀しい目をして、それを見ていた。

「叩き方、うまいね。その時、ふらっとしただけで後は痛くも何ともない」

久美は話題を変えようとしてそう言った。が、その内容がまずかった。

「いつも加減できたら……問題ないんだけどな」

その言葉が事件に関係あるということは久美にも分かり、押し黙る。

― 私は何を浮ついてるんだろ……この人にとって、今はそんな時じゃないのに……

「バレエ、やってるのか?」

俯いてしまった久美を見て、今度は洸一が話題を変えた。

「ちっちゃい頃、少しね」

久美が顔を上げる。

「そうか」

「うん」

洸一がまた窓の方を向いた。遠い目になる。

「……きれいだった。雨の中で踊っている時のおまえ。ほんとにきれいだった……」

「……ありがと」

消え入りそうな声だ。

「俺は、初めて会ったあの時、思った」

「何……を?」

「……いや、いい」

「……そう」

久美には今の言葉で十分理解できた。が、残念そうにしている。直接聞きたかったからだ。

しばらくの沈黙が訪れる。

お互い別々の方向を見ているが、2人とも満ち足りた表情をしていた。



 

「……私ね、今まで一度も付き合ったことないの」

沈黙を先に破ったのは久美の方だった。

「いくつだ」

「18……後5ヶ月で」

「ハハッ」

洸一は久美の背伸びが可愛かった。

「こう見えても、交際を申し込まれたことはあるんですからね。……でも、どこか違うの。そういうのって」

笑っていた洸一が、後の方の言葉を聞いて真面目な顔になる。

「あっ、感じのいい人だな、とか、ハンサムだなって思う人は何人かいた……でもそれだけ。他には何も感じない。周りは、もったいないとか一緒に歩けば目立つとか、いろいろ言ったけど、私は全然そうは思わない。だって、他人に見せびらかしてもしょうがないもん。関係ないもん、そんなこと……。自分が一緒にいて嬉しくなくちゃあ……」

「……」

「……自然に出逢い、波長が合って、話さなくても相手が分かる……そういう人がいつか必ず現れるって、そう思ってた」

久美が言い終わって洸一を見る。

彼は黙って久美を見詰めていた。何も言う必要はなかった。先ほど話しかけてやめたことを、代わりに彼女が言った形になった。

「エヘッ……」

饒舌になっていることに気付き、久美が照れ笑いする。

「子供の頃、大きくなったら星の向こうから赤い糸で結ばれた王子様が迎えに来てくれるって、そう思ってたから、あまり成長してないのね、私って……あっ……」

久美はいきなり洸一に抱き寄せられた。

膝立ちのまま、束の間ぼーっとする。

「あ、あ……」

うろたえ、何か言おうとしたが、言葉にならない。

洸一は久美の肩に顔を埋め、身動きしない。細い久美の身体が、洸一の強い力で折れそうだった。

「……」

毛布の裾がめくれ、久美の手が現れる。その手が洸一の腰の辺りに伸びて行き、やがて、しっかりと抱き締める。

初めて形に表した、お互いの気持ちだった。

 

 

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