街の片隅で…・6章

 

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6

 

もう何日経ったか分からない。が、2・3日程度でないことは喉の渇きと胃の痛み、何より麻衣の衰弱状態でよく分かる。娘は熱を出し、ほとんど眠ってばかりいた。このままでは危ない……

さとみも同じく弱ってはいたが、身体の小さい子供よりは蓄えが利く。最後の力を振り絞って、助かるための努力を始めた。

 

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それは空しく哀しいものだった。もう何度も試して駄目だったことを繰り返すほかないのだ。いくら叫ぼうとも助けは来ない。初め、崩れたらと心配していた《屋根》は、押してみても崩れるどころかビクともせず、足を痛めるばかりだった。やはり、どうしようもなかった。

ダメだ……

さとみは力尽き、麻衣の横にへたり込んだ。そのまま、もう虫の息になっている我が子をじっと見詰める。

「ごめんね、麻衣ちゃん……。いっしょにパパとこ、行こうね……」

そう言う彼女の目から、横たわっている麻衣の顔に涙が落ちる。これだけ水抜きをした状態でも涙腺だけは乾かないことが、さとみには不思議でならなかった。

数滴が唇に落ちた。麻衣がそれを舌で舐めて、ゆっくりと目を開いた。

「……ママ」

「ん? なあに?」

「どうしてたの?」

「えっ? エヘヘッ、何でもないよ」

母親は涙を拭い、笑顔を作って見せた。

「ママ……わたし、ビョーキみたい。だから、ねえ……いつもみたいにして」

消え入りそうな弱々しい声でせがむ。

「はいはい。わかりましたよ」

微笑みながら、さとみは麻衣の横に寝そべった。腕枕をして額をくっつけ合う。ものの1分ほどで、また麻衣は眠りに就いた。



おかしなものだ、とさとみは思った。

この子は病気をすると私の小さい頃と同じことを要求する。身体がさほど丈夫でなかった私は、熱を出すといつも母か祖母に頼んでこうしてもらった。頭がぼーっとし、天井が回り出す。寒天か何かに押さえ付けられているような気分になり、耳鳴りがして周りの音がよく聞こえない。そんな時、ひとりで横になっていると、この世に自分だけしか存在しないような錯覚に陥り、すごく不安だった。だから、こうしてオデコをくっつけてもらっていると、安心して眠れるのだ。小学校に上がってからは母はもうしてくれなくなったが、祖母は頼めばいつでもしてくれた。だから私は典型的なおばあちゃん子で育った……

「そうだ。おばあちゃん、どうしてるかな。元気だといいけど……」

ゆっくりと娘から額を離し、さとみは《屋根》を見上げながら呟いた。

祖母の志乃とは家を出て以来、一度も会っていなければ電話もしていない。当たり前だ。両親と同じ家に住んでいるのだから。



「どっちでもええ、か……」

さとみは家を出る前の日に志乃が言った言葉を思い出し、その口調を真似てみた。が、あまり似せることはできなかった。志乃の言葉があまりにも変わったイントネーションを持っているからだ。祖母の志乃は諸々の事情で大阪、岐阜、広島、鹿児島と転々としてきた人で、さとみが生まれたのをきっかけとして藤沢家に同居する身となった。志乃はさとみの父・正造の母親ではなく、母方、静江の親だった。過去にどのような経緯があったのか、さとみは知らされていない。が、そんなことはどうでもよく、彼女にとっては人物同様、その話し方さえ愛すべきものだった。

さとみは志乃の言葉をしっかりと頭に思い浮かべ、もう一度トライしてみた。

 

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「どっちでもええんじゃ」

志乃はもう一度そう言った。ドアを閉め、ベッドの方へ向かう。

「どっこいしょっと。おお、これ、ふっかふかやねぇ」

腰掛け、ベッドをパンパン叩きながら微笑む。辺りを見渡し、枕の横にドナルドダックが乗っかっていることに気付き、嬉しそうな顔をしてそいつを捕まえた。折り曲げたり捩じったりして弄んでいる。

「おばあちゃん……」

その様子をしばらく眺めてからさとみは声を掛けた。志乃の頭の上では、誠の描いたさとみが額の中で微笑んでいた。

「……さとみさん、あんた、悩んどるね?」

顔を上げて孫をじっと見る。

「……」

さとみは少し困惑したような笑みを浮かべた。答え辛かった。それを察してか、志乃は正面の壁の方を向いて続けた。

「お父さんの言った言葉が引っ掛かっとるんじゃろ……今の人を諦めても、後でなんぼでもええ人が見つかるって。この人だけっちゅうのは間違いじゃて?」

「聞いてたの?」

「ホッホッ……年寄りは耳が遠なっても地獄耳、そういうことだけはよう聞こえるんじゃ」

さとみもつられて苦笑した。

「さとみさんは、その人以外、他はないと思っとるんだね?」

その問いに、さとみは真顔に戻り頷いた。

「それで、お父さんは後でいくらでもいると言う」

「うん……」

「ふ~ん……」

笑顔のまま溜め息を付いて志乃が俯く。

「……ねえ、おばあちゃん。どっちが正しいんだろう……」

そのまま顔を上げない祖母を見て、今度はさとみが尋ねた。

「どっちがおうとって、どっちが間違っとるってことはねえ。どっちも正しいんじゃ」

「?」

言葉の意味を理解できず、さとみが首を傾げる。それを見て志乃は笑った。

「どっちを信じてもええんじゃよ……。あんたが思っとることを信じて貫けばそうなるし、お父さんの言う通りだと思えばその通りになる……そんなもんじゃ」

「……」

「……物事に、これはこうだ、ちゅう決まりなんてないんじゃ。特に人間の心のことなんか、そう簡単に決め付けられるもんじゃねえ……。だから、さとみさん、どっちでもええんじゃよ……」

「おばあちゃん……」

言葉とは裏腹に、微笑んでいる中にどこか哀しい色があるのを見て取り、さとみは後の言葉を失った。孫と離れ離れになりたい祖母などあろうはずはなかった。ただ視界だけがぼやけ始める。

「行くんじゃろ? 急なことで大したことはできんが、これ持って行きなされ。まだ、こないだまで2人とも高校生やったし、貯金もあんまりないんじゃろ?」

そう言うと志乃は立ち上がり、懐から大きな財布を出して、孫の手にしっかりと握らせた。

「……」

さとみは何も言えず、祖母に思い切り抱き着いた。

「おお! これこれ……」

2・3歩よろめき、志乃が笑う。

「……ヘヘッ、ごめん」

離れた彼女は、日頃祖母に対する時と同じ笑顔に戻っていた。

「……」

さとみとは対照的に、だんだん志乃の顔が、いつになく真剣なものに変わってくる。

「?」

さとみがそのことに気付いてキョトンとする。それを機に、志乃は眉根を寄せて遠慮がちに尋ねた。

「……さとみさん。一つだけ、言ってええかの……」

「ん? なあに?」

「一度決めたら、迷ったらいかんよ。途中で諦めたらいかんよ。こうと思ったら最後まで貫かにゃあ……そうせんと不幸になるでね……」

そう訴えかける志乃の目に、さとみは無言で、しかし、きっぱりと頷いた。



貫けばその通りになる……私もそう思った。思ったからこそ麻衣を産んだんだ。でも……ああ! マコト……なぜ死んだの?

さとみは弱々しい寝息を立てている麻衣を見て思った。たかだか2年半だとは言えばそれまでだが、女手ひとつで子供を育てるのは大変だった。しかも異郷の地で……。頼れるものはひとりもいない。実家に帰れば良いのだが、「それみたことか」と言われるのがどうしても嫌だった。失敗……そういうものにはしたくなかった。

あれこれ考えていた彼女の頭に、その時ふいに一つの疑問が浮かんだ。

「マコトは、どうだったんだろう……」

さとみは無意識に呟いていた。

そうだ。一緒になってからこれまで、自分のことばかりで一度も彼の気持ちを考えたことがなかった。そうなんだ。私だけじゃないんだ、人生が突然変わってしまったのは……彼も好きな絵の道を断念したんだ。一度としてグチもこぼさなかったから、完全に忘れていた……

彼女は当然考えて然るべきのことに、ようやく気付いた。

どんな気持ちだったんだろう。後悔はなかったのか? 自分のことを全て捨てて、この子と私に懸けて……

さとみは記憶を辿った。彼女の脳裏に次々と過去の場面が映し出されて行く。

「マコト……泣いてた」

ラッシュは出産シーンで止まった。

13時間の格闘の末、可動式の寝台に乗って分娩室を出てきた時、初めに見えたものが廊下の長椅子に座り俯いている彼の姿だった。

私が処置を受けている間に、彼はもう生まれたばかりの麻衣をガラス越しに見せてもらっていたはずだった。

どうしたのかと思い、看護婦さんに頼んで近くまで連れて行ってもらうと……彼は泣いていた。あの、感情を滅多に表さないマコトが、ぼろぼろぼろぼろ涙をこぼしていた。

私が声を掛けると、「俺のような男でも……」彼は顔を上げずに話し始めた。

「えっ?」

「……俺は、自分が絵を描く以外、何も能がない男だと思っていた。だから……絵をやめて働き出して、すごく不安だった。本当にやって行けるのかどうか……怖かった」

「……」

「でも、今は違う! 俺のような男でも、こんなに凄いことができるんだ。こんなに素晴らしいことが……」

マコトはそれから顔を上げ、私の手を取り「ありがとう」と言った。ひとが見ていることも気にせず、涙を流し続けながら……。私も自然に涙が出た。

「……」

さとみが麻衣を見詰める。表情に生気が蘇りつつあった。

やはり、この子を死なせるわけには行かない……

彼女は急に体を起こし、

「誰かーっ! 助けてーっ!」

外に向かって叫び始めた。

この子は、この子だけはどうしても死なせるわけには行かないんだ……

諦めずに何度も叫ぶ。誠の言葉と志乃の言葉が頭の中で反響していた。

マコトは貫いたんだ。私と違い、迷うことなく諦めず、貫き通したんだ……

彼女はまた膝立ちになり《屋根》を押し上げ始めた。

死なせるわけには行かない。生まれた時、彼があんなに感激してくれた子供を、このまま飢え死にさせるわけには行かないんだ! 麻衣は私とあの人の愛の証だ。あの人が、この世に間違いなく生きていた証明なんだ。死なせるわけには行かない……

唇を噛み締め、懸命に押す。水分を失った唇はわけもなく傷付き、血が顎を伝う。

こんな考え、今の同世代の女性が聞けば、せせら笑うのかもしれない……でも、陳腐でもいい。ありきたりでもいいんだ。一番大切なことなんだ!

「ううっ……ああっ!」

さとみはうめいて地に伏せた。いくら押してもビクともしない。

落ち着け……焦ってもダメ。考えるんだ……

ゆっくり辺りを見回す。

外への呼びかけは無駄。だからといって脱出も不可能……そうなると後は何とか救援が来るまで生き続けなければ。でもどうやって? この子だけでいい、この子だけでいいのに……。ほんの一握りの水と食べ物さえあれば、この子だけなら何とかなるのに……

彼女はまた苛立ち始めていた。いけない。気持ちを鎮めるため、手で顔をゴシゴシとこする。その時、何かヌルッとしたものに触れたのを感じ、手を見る。

「……はっ」

暗くてよく見えなかったが、それが何であるかはすぐに理解できた。

さとみの表情が変わる。

人間は塩と水だけで何日か生きられると、何かに書いてあった……ということは、もしかしたら……

唇に指を当て、それを麻衣の口元に持っていく。

「あっ……」

喉が乾き切っている麻衣は、眠ったままで懸命にさとみの指をしゃぶった。

「……」

手を引いてからも、しばらく口をモゴモゴと動かしている麻衣から、さとみは視線を自分の手に移した。もう片方の手も身体の前に持ってきて、その両方をゆっくりと見比べる。

「助かるかもしれない……」

放心したように無意識のうちに呟き、手をじっと見詰めている。その彼女の表情が、少しずつ厳しいものに変わってくる。

その変化が頂点に達した時、さとみは祈りを込め、行動に移した。

 

 

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