街の片隅で…・4章

 

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「たすけて~っ! たすけて~っ!」

壁に向かって麻衣が叫ぶ。

そのシルエットを見ると、頭にまた大きな耳が乗っかっていた。だが、片方しかない。左耳は斜め下によれて垂れ下がっている。ガレキの下から見つけ出した時には、もう半分ちぎれかかっていたのだ。

「……もっと、大きな声で……ウウッ……」

さとみが顎に汗をためて言う。暑さというより苦痛のための脂汗だ。彼女は膝立ちの姿勢で《屋根》を押し上げようとしていた。

 

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昨日、母親が娘に断言した通り、一応、朝は来た。だが来たと言っても、目覚めた時に寝る前より周囲が幾分明るく感じられたというだけで確かなことではない。長時間、闇の中にいたことによる錯覚かもしれなかった。

起きてしばらくは大人しく救援を待っていたのだが、暗くて狭いところで、しかも怪我を負っている者がそう長くじっとしていられるものではない。だんだん不安になってくる。麻衣もぐずり出し、2人して大声を張り上げ助けを求め始めた。やがて喉が枯れ、焦燥感のみが募る。痺れを切らし、挙句の果てに、さとみは足のことも《屋根》が崩れるかもしれないというリスクも顧みず、自力で脱出する方法に切り替えたのだった。

 



「ママ……だれも来ないね。おじさんやおねえちゃん、どこ行ったの?」

「店員さん……まだネンネしてるの……麻衣……の声が……ああっ!」

痛みが限界を超えて彼女はへたり込んだ。うめき、足を押さえる。いくら膝で支えているとはいえ、当然、骨折している脛へも負荷がかかる。尋常な痛みではなかった。気を失いそうなほどだった。

「……声が小さいから来ないのよ。もっと大きな声、出さないと起きてくれないわよ」

弾む息を整えながら何とかそれだけ言い終えると、さとみはぐったりして壁にもたれた。まだ肩で息をしている。

「……うん。わかった」

母親の苦痛に歪む顔をじっと見詰め、そう答えると麻衣はまた叫び始めた。

 

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子供はいいわね……

しばらくして少し楽になったさとみは、元気良く大声を出している娘をぼんやりと眺めながら思った。

彼女の左足には添え木がしてあった。ギプスの代用だ。雑貨の倉庫だから何かあるだろうと思っていたが、そう都合よく、硬くて平らで長細い物という条件をクリアしているものは見つからない。結局、ホウキの柄を使った。それでもないよりはましだろう。配線コードで巻き付けてあった。

「はあ……」

溜め息を付く。これからどうすればいいのか、何も名案が浮かばなかった。

動いたために添え木がずれてしまっている。彼女はそれを一旦解き、改めて締め直すことにした。

結局、何もいいことはなかった……

滑るホウキの柄を左手で押さえ、ゆっくりとコードを巻きながら、最近よく頭をもたげてくる後悔の念に彼女はまた囚われだしていた。



両親の言葉と自分の気持ちを格闘させた結果、己を信じて家を出た。大都会から都落ちしてこの東海へ……でも結局、碌なことはなかった。

生活も想像していた以上にきついものだった。台所と六畳一間の部屋を借り、最低限必要なものを揃えると、残りで生活できるのは一ヶ月が限度。夫はすぐ仕事を探し始めた。

最初、広告代理店など自分の才能を生かせる職を探していたようだったが、田舎にそういった会社はあまりない。やっと見つけても、時期が時期だけに新入社員が入ったばかりで空きがなく、給料もやっていけるほど貰えない。物価が安い分だけ労働賃金も低かった。私が妊婦で共稼ぎができず、夫ひとりで高収入を得なければならない。最終的に運送会社に勤めることになった。半月経っていた。そのお陰で初月給までの数日間はキャベツをおかずに1日2食、それも一回に炊くお米は一合だけ。夫は力仕事、私は妊婦なのにも関わらず、だ。家にいた頃には到底想像もつかないことだった……

作業を終え、さとみはまたゆっくりと壁にもたれた。麻衣はまだ大声で助けを求めている。

少し楽になったのは夫が仕分け・出荷などの構内作業から運転手に移った頃からだった。初めから運転手になれればいいのだけれど、免許取得後一年経過しないとドライバーにはなれない。免許は高3の夏、嫌がる彼を無理やり教習所へ連れて行き、一緒に取っていた。学生時代、父の車を乗り回していた私とは違い、夫にとって教官なしの初めての運転が4トントラック。「怖いから構内作業に戻りたい」と言う彼をなだめすかす毎日。でも、そのお陰で幾らかは貯蓄できるようになり、夫も運転に慣れて次第に積極的になっていった。

近距離から中距離、「まだ早いのでは」と言う上司を説き伏せ深夜の長距離便へと変わった。そこまで行くと、初めは喜んでいた私もだんだん不安になってくる。生まれて間もない娘と2人きりで眠る夜が続いた。

そして事故。麻衣が8ヶ月の時だった。過労による居眠り運転。ガードレールを突き破り谷に転落、即死だった。やっと安定し始めていた生活が一夜にして簡単に崩れ去った。当分は何も考えられなかった。放心状態でただ育児のみ母親の習性でこなしていた。




思考ができるまで回復するのに3ヶ月かかった。家に帰ることを第一に考えた。が、やはり帰りにくかった。仕方なく、とりあえずパートに出ることにした。工場の流れ作業。が、仕事に行く度に麻衣を預けてある託児所から電話が入る。熱を出すのだ。原因は分からなかった。ただ、私が引き取りに行くと熱はすぐ下がる。また預けると熱を出す。その繰り返しだった。そんな状態では働きに出られず、2週間でその工場を辞めた。

 



 

それからはまた貯金を食い潰す日々。だんだん貯えも底をついてくる。後々のためにも労災保険には手を付けたくはなかった。悩んだ末、夫の仕事仲間を当たると内職の配達をしてみないかと言われた。子育てとかで働きに出られない主婦に会社からヘヤー・カーラーなどの包装・箱詰めの仕事を運ぶわけだ。だが、本当はあまりやりたくなかった。たいして重いものではないといっても、やはり力仕事だ。女のすることじゃない。でも、それなら麻衣を連れて回ることもできるし、ある程度時間の自由も利く。結局、貯金をはたき、オンボロの軽四輪を購入した。

 

 

初めこそ要領が分からず大変だったが、だんだん慣れてきて半年も経った頃には仕事をしてくれる主婦も安定しだし、人数も増え、車が間に合わなくなった。それで今の1トン積みをローンで買ったのだ。最近は同年代の男性の平均的な月収を上回る月が多くなり、思い切って2LDKぐらいのマンションに引っ越そうかと物件を捜し回っていたのだ。

ようやく十人並みの生活に戻れると張り切っていた矢先に、これだ……

「はあ……」

さとみはまた溜め息を付いた。何気なく髪を触り、バサバサになっていることに気付く。

もうほとんど女じゃない……

仕事の邪魔になる長い髪は切ってしまい、次第に手入れもいい加減になっていった。化粧しても汗ですぐ落ちるので、最近ははじめからしない。日焼けも夏の間はいいが、そのうちシミに変わるだろう……

お嬢様育ちが妊娠したために駆け落ち。それ以後、完全にツキに見放されてしまう……考えてみれば、どこにでも転がっている、よくある話だ。私がそんな人生を送ろうとは……

さとみは手櫛で髪をとかすのをやめ、自嘲的に笑った。

せっかく、頑張ってきたのに……

涙が出そうになる。それを堪えようとしっかり自分の両肩を抱く。華奢で女らしかった彼女の身体は力仕事のため、いつの間にか筋肉質なものに変わっていた。

「ママ……」

気が付くと麻衣がそばに来ていた。顔を覗き込んでいる。

「な、何? 呼んでなきゃダメじゃない!」

バツの悪さも手伝って、さとみは必要以上の声を出して叱った。

「うん。でも……」

「何なのよ!」

はっきりした物言いをしない娘にいつも苛立つ。が、それは自分がいつも怒っているからだということに、彼女は気付いていなかった。

「……おしっこ」

「なっ……」

初めて気付いた。ここにはトイレもない。どうしよう……

「ママ、オシッコ! もっちゃうよ!」

麻衣が足をバタバタさせ始めた。

「う、う~ん……」

さとみは返答に困った。周囲を見渡すが、代用が利きそうなものはない。

「ねえってば!」

「そ、そんなもの、その辺でしなさい! うっ……」

また癇癪を起こし、彼女は怒鳴った。が、どうしたのか急に胸の辺りを押さえ、沈黙する。

「……ママ、どうしたの?」

その問いには答えず、じっと一点を見詰めている。明るいところで、しかも顔が汚れていなければ、顔面蒼白になっているのが分かったことだろう。

「ねえ……」

麻衣が母親の肩に手を乗せた。その時、うっ、ともう一度うめき、さとみは吐いた。

先ほど、折れた足に負担をかけた反動だった。

 

 

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