夜想曲・変ロ短調①
「う~ん……」
西谷がイライラしてペンで机を叩いている。
捜査第一課。
忙しそうな室内。打ち合わせをしている者、資料をどこかへ運ぶ者、至る所で鳴り響く電話の音……その中で、広岡だけは暢気そうに茶をすすっている。
「おい! 広岡! まだ工藤の居所は掴めんのか?」
「えっ……はあ」
「ぐずぐずしてると、ほんとに高飛びされちまう……」
「そうですね」
「そうですね、じゃねえ! この馬鹿野郎……う~ん」
目論見通りに行かず、日頃はかなり我慢強い西谷が相当苛立っていた。2度も逃げられている。それも焦りに繋がっていた。
「……」
広岡は触らぬ神に祟りなし、といった体を決め込んでいる。こんな時は何を言ってもどやされるだけだ。
「おまえ、ちゃんとあの女、張ってんだろうな?」
「えっ……はい」
広岡が焦って視線を逸らす。取り調べを受ける犯人の気持ちが分かるような気がした。
「ええ~い!」
西谷が持っていたペンを折ってしまう。
「……」
広岡は茫然とそれを見ていた。
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「よし、と……出来上がり」
弁当を作り終え、久美は小さく呟いた。
女の喜びを感じている。昼前に起き出して買い物に行き、家の者が寝静まった頃、洸一の食事を作る。そんな生活がもう3日続いていた。
折詰めを持って2階に上がろうとすると、また敏男が顔を出した。
「くみ~っ。おまえ、また作ってるのか?」
「えっ……う~ん。別にいいでしょ」
久美が面倒臭げに答える。
「そりゃあ、別にいいが。最近、朝遅いそうじやないか……夜、何してんだ?」
「べ、別に何もしてないわよ! それに毎朝って、2・3日のことじゃない。ママ大げさなんだから」
そう言うと久美は、急いで2階に上がって行った。
「……」
敏男は不審げに、それを見送っていた。
深夜に久美はもう1度シャワーを浴びた。ドレッサーの前に座り、髪を梳かしている。
取り立てて必要だったわけではない。ただ、今はいつも身綺麗にしていたくて仕方がなかった。
梳かし終え、リップクリームを塗る。化粧はしない。鏡の前にも開いている引き出しの中にも、化粧品らしきものは見当たらない。しないと言うより持っていないのだ。
夏服のよそ行きを着る。一番お気に入りの白いワンピースは雨に濡れたのでクリーニングに出し、まだ返ってきていない。
― もう、そろそろいいわね……
時刻は午前1時を回っていた。
昨夜と同じく音を立てないよう慎重に階段を下り、外へ出て行く。しかし、そう何度もうまくはいかなかった。
久美が出てすぐ、敏男が部屋から出てきた。
「久美……」
敏男は茫然として呟いた。
いつの間にか、居間に通じる戸を薄めに開け、寿江が立っていた。哀しそうな顔をしている。
しばらくの間そのままぼーっと突っ立っていた敏男が、急に思い出したかのように後を追って出て行く。
「……」
寿江は無言で、ただ何かを案じているようだった。
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床に開いた穴から、久美が顔を覗かせた。前もって洸一が梯子を下ろしていたのだ。
「おお……来たのか」
指定席に座っていた洸一がそちらを向く。
「ハロー」
久美は笑いながら上がってきた。
「遅いから、今日は来られないのかと思った」
表情と口調から考えて、別に咎めているわけではないらしい。
「ごめんね。はい、これ」
弁当とビールを渡す。
「それから、これは朝ご飯。ここ置いとくね」
そう言って久美は部屋の隅に紙袋を置いた。中身はパンと缶コーヒーだ。
「ありがと」
「やっぱり明日から、お昼ご飯も作ってこようか? お腹すかない?」
「いや、いい。大丈夫だ」
腹は減る。が、手作りだとはいえタダではないのだ。家族に怪しまれるということも気にかかっていた。
洸一はまずビールを開けた。
プシューッという音と共に勢いよくビールが飛び出し彼の顔にかかる。
「うっ……」
「? アハハハハッ……ゴメン。走って来たから」
「……おまえなァ」
びしょ濡れの顔で久美の方を見る。
「ヘヘッ、おまけして」
そう言い、久美はハンカチで洸一の顔を拭いた。
「ふ~ん、しゃあねえ、負けてやろう」
洸一はそう言って折詰めを開け、食べ始めた。
「……」
久美はいつも通りクッションを取ろうとしかけ、思い直して洸一と向かい合わせの椅子に座った。
「どっか行ってきたのか?」
久美の服装を見、洸一が訊く。
「えっ? ううん、どこも。……ふふっ、こんな時間にどこ行くの?」
「……そうか」
そう言ったきり、また黙々と食べる。洸一は久美の服装をほめようかとも思ったのだが、そういうのは苦手で、うまく言えそうにないのでやめた。
「……」
久美はちょっと不満げだった。
食べ終わり、洸一は残ったビールを一気に飲み干した。
それからは話すわけでもなく、ただ久美をジーッと見ていた。
初めのうちこそ、赤くなったり俯いたりしていた久美だったが、時間が経つにつれ、自然と洸一の瞳の中に入って行った。
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